60年前の女性監督の作品を復元「パラサイト」のイ・ジョンウン主演
『パラサイト 半地下の家族』(ポン・ジュノ、2019)で物語の鍵を握る重要な役を演じて広く知られたイ・ジョンウンにとって初の単独主演映画だが、スランプに陥った役のため、終始彼女はなんとなく憂鬱そうな表情を浮かべている。
私がここで言いたいのは、大手会社の映画にスクリーンを独占されて、韓国ですら見る機会のなかなかないシン・スウォン監督の作品を、日本の映画館で普通に鑑賞できることの意義だ。
昨年の東京国際映画祭でコンペティションに出品された本作は、あっという間にチケットが完売し、私も悔しい思いをした一人だが、こうして日本で配給されることになるとは正直予想していなかった。
その背景にあるのは、日本でもますます関心が高まっている、フェミニズム、女性たちの困難な状況への異議申し立て、そんな困難のなかで活躍してきた女性の仕事に対する見直し・再評価の機運だろう。
男性社会だった映画界では、スクリプターや衣裳、編集など女性が就くことの多い役割もある一方で、集団製作の先頭に立ちスタッフを牽引する「監督」を女性が務める機会は、長い間非常に少なかった。
近年日本でも、大女優・田中絹代の監督としての一面に光が当てられたり、国立映画アーカイブでは現在「日本の女性映画人」と題した上映企画が行われている。韓国でもまた、近年では女性監督の活躍が目立ち、評価の高い作品が作られていくと同時に、過去の女性映画人の発掘も進められている。そういった文脈において、フィクションの枠をとりながらもかつての女性映画人の状況を浮かび上がらせた本作は、きわめて重要な一作と言えるだろう。
今回のコラムでは、映画でも言及されている韓国映画史における女性監督たちを系譜的に紹介したい。本作を見る上でのサブテキストとしてお読みいただけると幸いである。
幼子背負い撮影現場に 初の女性監督パク・モナクの過酷な現実
韓国映画界に女性監督が初めて登場したのは、パク・ナモク(1923~2017)である。
植民地時代の朝鮮で生まれた彼女は、学生時代に砲丸投げの全国大会で優勝するなど、陸上選手として活躍。ドイツの女性監督、レニ・リーフェンシュタールが手がけたベルリンオリンピックの記録映画『民族の祭典』『美の祭典』(38)に感銘を受けて、戦後直後の1946年、チェ・インギュ監督の『自由万歳』撮影現場で雑用の手伝いとして映画界に足を踏み入れ、『新しい誓い』(シン・ギョンギュン、47)のスクリプターになり、キャリアを積んでいく。(チェ・インギュは、植民地時代の『授業料』(40)や『家なき天使』(41)といった作品で、韓国映画のリアリズムを定着させたと評価される一方、『愛と誓ひ』(45)では日本の今井正監督と共同監督を務めるなど、戦争協力映画を作った人物として親日派のレッテルを貼られ、批判の的にもなっている。)
1950年、朝鮮戦争が勃発し映画製作の環境が厳しくなると、韓国国防省の撮影隊に入り、ニュース映画製作に参加。このときに知り合った脚本家のイ・ボラと戦争後の53年に結婚、翌年には長女が生まれた。折しも、姉から製作費を借りるなど念願だったという監督作の準備のめどが立ち、初監督作『未亡人』の撮影に着手する。
朝鮮戦争で夫を亡くした未亡人が、若い男との同棲のために幼い娘を捨てるという、当時の社会通念からは考えられない破格的な作品だったのだが、それを作る監督パク・ナモクの環境は過酷そのものだった。
生まれたばかりの娘の面倒を見てくれる人がおらず、旦那すら見て見ぬふりをするなかで、自らおんぶしたままで撮影現場に立つしかなかったのだ。
本作にも登場する、韓国映像資料院の展示室に、パク・ナモクの紹介コーナーがある。自らの監督作品の撮影現場で、幼子を背負いカメラを悲しげに見つめる彼女の写真は、「男の世界」とされた監督業に挑む女性に対する社会的な偏見をダイレクトに伝え、当時の女性監督の現実を物語る象徴的なイメージと言える。
パク・ナモクは、スタッフの食事までも自分で作り、死に物狂いで撮影をやり遂げた。監督が女性だからというだけでレコーディングを断られたこともあったというし、同じ理由から上映する劇場を見つけることもままならなかった。韓国初の女性監督であることを宣伝に生かしたものの、興行的には失敗してしまった。
製作の過程から興行に至るまで、女性に排他的な見えない壁に嫌気がさしたのだろうか。あるいは『未亡人』製作時の借金返済のためとも言われるが、彼女はこの1本だけで惜しくも監督を辞めて出版社に就職、映画界を去ってしまった。
だが彼女が、あまりにも象徴的な写真とともに残した足跡は偉大であり、先駆者として後進の女性たちに大きな勇気を与え続けている。
家父長制社会の葛藤描いたホン・ウノンの「女判事」
韓国映画史上、二人目の女性監督は、本作のモデルにもなっているホン・ウノン(1922~1999)である。
やや混乱しがちなので整理しておくと、映画ではフィクションの要素も多分に含まれるため、ホン・ウノンではなく「ホン・ジェウォン」という名に変えられているが、本作の中心となる『女判事』は1962年に作られた実在の韓国映画である。
1940年に満州に渡り、新京音楽団に入団した彼女は、戦後帰国するとパク・ナモクと同じくチェ・インギュ監督の下で修業し、『罪なき罪人』(48)のスクリプターを担当した。彼女は韓国初の女性シナリオ作家としても活躍し、『女判事』で念願の監督デビューを果たした。
この作品は、女性判事の死という当時実際に起こった事件を題材に、判事になった女性が劣等感を抱いている夫や姑との葛藤を乗り越えていく様子を描いている。
男性中心の家父長制社会である韓国社会を、判事という優越した立場の女性を通して提示するのは、女性監督ならではの視点と言えよう。男だらけの法曹界における女性判事という設定は、男だらけの映画界におけるホン・ウノン自身の境遇が反映されているのかもしれない。
『女判事』は当時の新聞で「繊細なプロットや明確なカットなど、隠された実力を発揮している」と評価され、ホン・ウノンは『女やもめ』(64)、『誤解が残したもの』(65)と立て続けに監督作を発表したものの、その後はなかなか監督する機会を得られず、結局3本の監督作を遺してシナリオ執筆に専念することになった。
その確かな理由はわからないが、パク・ナモクの壁となった事情とそう変わらないのではと想像することは難くない。周囲からはかつて、還暦を過ぎても活躍するだろうと言われたそうだが、「還暦はおろか、50歳にもなっていないうちに」辞めてしまったと悔しがっていた。
パク・ナモクとホン・ウノンはとても仲が良く、本作でオッキのモデルとなった編集技師のキム・ヨンヒと3人でよく集まっていたため、「サンバガラス」(日本の「三羽烏」がそのまま韓国語に転じた)と呼ばれていたという。
儒教的思考の強い韓国では、日本以上に「女性の役割は家事」という考え方が根強く、「家の外」での仕事である映画監督という職業は、女性にはまったくふさわしくないと思われていた時代であった。パク・ナモクが先駆者ならば、ホン・ウノンは女性監督の可能性を広げた開拓者と言ってよいかもしれない。
南北朝鮮で映画を撮ったチェ・ウニ、興行的に成功した女性監督も
ホン・ウノンの監督デビューから2年後、当時人気絶頂だった女優チェ・ウニ(1926~2018)が『ミンミョヌリ~許嫁』(64)を発表し、3人目の女性監督に名を連ねた。
貧しさゆえに許嫁になった女性の苦しみを描いたこの映画でチェ・ウニはヒロインも演じており、「スター女優の監督デビュー作」と世間に大きく注目された。そこには、韓国映画の巨匠とされる映画監督で夫のシン・サンオクのプロダクション経営のため、妻であり人気女優のチェ・ウニが監督を手がけることで興行的な成功を狙うという目論見があったようだ。
続けてチェ・ウニは、『お姫様の片思い』(67)と『独身の男先生』(72)を撮っているものの、「スター女優」という鳴り物入りの宣伝文句が強調され、作品が正当に評価されたとは言いにくい。
1978年、北朝鮮に拉致されたシン・サンオクとチェ・ウニは、86年に脱出するまでの間に北朝鮮での映画製作に携わったのだが、特筆すべきはシン・サンオクだけでなくチェ・ウニも『約束』(84)という作品を監督していることだ。チェ・ウニは、南北朝鮮で映画を撮った唯一の女性監督でもあるのだ。
韓国への帰国後、チェ・ウニは舞台演出にも挑戦するなど、監督の経験を生かして活躍の場をさらに広げ、旺盛な活躍を続けた。
4人目は1970年、自ら手がけたシナリオで『初体験』を撮り、監督デビューを果たしたのがファン・ヘミ(1936~)である。中年男性と若い女性の不倫を取り上げたこの映画は、抑圧された女性の性的欲望を繊細に描いて高く評価され、ファン・ヘミは百想芸術大賞で新人監督賞を受賞し、興行的にも成功を収めた。
勢いに乗って『悲しい花びらが落ちるとき』(71)、『関係』(72)と、デビュー作から3年連続で毎年映画を撮る意欲的な活動を見せたが、これらの2作が興行的に失敗したためそれ以上映画を作ることができず、彼女は監督を辞めてしまった。残念なことに、ファン・ヘミの映画は3本ともフィルムが残っておらず、私たち観客は彼女の映画を見ることができない。
ファン・ヘミが映画界から去った後、5人目の女性映画監督が登場するまでには実に10年以上もの歳月がかかっている。
日本の小説「積木くずし 親と子の二百日戦争」(穂積隆信、82)の映画化『泥沼から救った私の娘』(84)でイ・ミレが監督デビューを果たしたのだ。本作は興行的には大成功を収めたものの、撮影途中で著作権の無断盗用が発覚したり(後に正式に購入)、出来上がった映画は、日本映画の『積木くずし』(斎藤光正、83)とカメラのアングルやショットの構成まで酷似していたため盗作と疑われたりと、イ・ミレにとっては後味の悪いデビュー作となった。
続いて『唐辛子畑のキャベツ』(85)、『勿忘草』(87)と、順調に監督のチャンスに恵まれたイ・ミレは、1991年までにさらに3本の青春映画を撮り上げたものの、「撮りたい映画を撮らせてくれない」「金儲けばかり追求する韓国映画界が嫌になった」と、最後には映画界を去っていった。
製作環境も「民主化」 90年代からの変化とシビアな現実
1950年代から80年代まで、ほぼ10年ごとに1~2人の女性監督が現れては消えていった韓国映画界の状況は、1987年の民主化闘争での勝利、93年の軍事独裁の終焉と文民政府の発足により「民主化」に向けて歩み始めた韓国社会の中で、少しずつ変化を遂げていく。
海外旅行が自由化され、80年代に大学を出た若い人材の海外留学も増えた。海外で映画作りを学んだ女性たちが韓国に戻ってきたことで、頑なだった男性中心の映画界が少しずつ崩れ始めていったのである。
ちょうどビデオカメラやデジタルカメラが普及し、個人でも簡単に撮影ができるようになって、低予算での映画製作が可能になったことで、莫大な資金を必要としたそれまでの製作環境も「民主化」されていった。お金をかけてもかけなくても、作り手次第で良い映画が撮れる時代になったのだ。
1990年代の韓国ではさらに、釜山国際映画祭を筆頭にさまざまな映画祭が開催されるようになり、女性監督たちの作品が上映される機会も格段に増えた。
なかでも97年から始まったソウル国際女性映画祭は、世界的にも重要な「場」となり、意義深い活動を続けている。こうした状況を踏まえ、多くの女性監督たちも新たに登場してきた。この時代には、フランス留学経験を持つ『3人の友達』(96)のイム・スルレ、『美術館の隣の動物園』(98)のイ・ジョンヒャン、従軍慰安婦だった女性たちの共同生活を映したドキュメンタリー『ナヌムの家』(95)のピョン・ヨンジェらがいる。
2000年以降も『子猫をお願い』(01)のチョン・ジェウン、『4人の食卓』(03)のイ・スヨン、ドキュメンタリー『ショッキング・ファミリー』(08)のキョンスンらが登場し、テーマや関心もより多様な様相を見せるようになった。さらに近年では『はちどり』(19)のキム・ボラが高い評価を得るなど、女性監督として括ることに意味がなくなるほど、その活躍は豊かになっている。
だが、本作のシン・スウォンをはじめ、イム・スルレ、チョン・ジェウンなど、粘り強く映画を撮り続けている監督も多い反面、デビュー作は撮ったものの2作目になかなか着手できずにいる監督や、長い間映画を撮ることができず、活動停止のような状況に置かれている人も少なくないという問題は依然残っている。
次作の実現のためには、興行的な成功、あるいは批評的な評価が欠かせないシビアな現実を抱えている今の時代、かつての女性監督たちの熱意と強さを知ったうえでもなお、本作の主人公・ジワンに安易な希望やハッピーエンドが用意されていない映画の終わり方は、女性監督たちの現実が決して楽観視できない状況を示していると言えるだろうか。
相次ぐ興行上の失敗によってスランプに陥り、監督としての先行きまで危うくなっているジワンにとって、ホン・ジェウォンの映画の復元作業が、女性監督としての自分自身を復元していく過程にほかならない。
それはまた、韓国の映画史を越えた「女性史」の復元にも繋がるに違いない。