■増える女性監督の映画
韓国で昨年末、公開された映画「私が死んだ日」。信じていた相手に裏切られたり、肉親を失い絶望したりする者同士が次第に関係を深めていく様子が丹念に描かれている。映画「パラサイト 半地下の家族」に出演したイ・ジョンウンさんや数々の映画賞を受賞してきたキム・ヘスさんら主演の3人を含め、出演者の多くが女性だ。
監督も女性のパク・ジワンさん。ただ、「女性中心の配役は意図的なものではなかった」と明かす。家族や友人ではない他人同士でも、痛みを知っているからこそ、支え合える可能性を描きたかったという。そのための最も効果的な配役を考えた末の「自然な結果だった」。
いま、韓国では女性の監督による映画が増えている。韓国の映画雑誌「Cine 21」によると、2014年から18年に上映された産業映画の数は平均76本で、女性監督の作品は8%だった。
一方で、映画振興委員会のデータによると、19年の興行成績トップ10には女性の監督作品が3作品あり、上位の40本まで含めると、6作品(1作品は男女の共同)になる。このうちのほとんどが新人だった。
学歴、キャリア、子育てなどで女性が直面する生きづらさを描いた「82年生まれ、キム・ジヨン」や「マルモイ ことばあつめ」は日本でも上映された。このほかにも思春期の中学生の心情を描き、国際的に高い評価を受けた自主映画「はちどり」も女性の監督作品だ。
単純比較できないものの、同じく19年に日本で興行収入10億円以上をあげた邦画40本のうち、女性の監督作品は、4本目となる「人間失格 太宰治と3人の女たち」などが公開された蜷川実花監督と「名探偵コナン 紺青の拳」などの永岡智佳監督にとどまっている。
こうした韓国映画界における積極的な女性進出の背景に「#MeToo」運動が関係しているとの指摘がある。
■女性の描かれ方にも変化が
韓国では、2018年に検事の女性が実名で検察内であったセクハラを告発したのをきっかけに「#MeToo」運動が急拡大した。複数の知事が性的被害に遭ったとする女性の訴えなどを受けて辞職。スポーツ、教育、芸能、そして映画界でも性被害や女性蔑視的な言動の被害にあった人たちが声をあげ、加害者が厳しく指弾された。
世界経済フォーラムの男女格差(ジェンダーギャップ)ランキングをみると、日韓ともに下位にとどまる。ただ、18年に115位だった韓国は「#MeToo」運動拡大の翌年に108位に上がった。同じく日本は110位から121位に後退した。
ポン・ジュノ監督の長編デビュー作「ほえる犬は噛まない」などを制作してきたチャ・スンジェさん(60)は作り手側に女性が増えていることについて、こう分析する。「南北分断の痛みや民主化闘争を経験してきた世代の文化人は、不合理との戦いを通じて自分たちを表現してきた。次世代にとっては人権や女性の生き方といった問題が声をあげて勝ち取るべき対象となっているのではないか」。
さらにチャさんは、観客側もこうした変化を支持していると指摘する。映画「82年生まれ、キム・ジヨン」などの作品に対しては、忙しくて映画館に見に行けなくても、内容には賛同したいというファンによるチケットの買い占めが起きたという。
女性の監督作品が増加傾向にあることについて、「私が死んだ日」にも出演したイ・ジョンウンさんは「俳優としても飛びつきたくなるほどの喜び」だと話す。
少し前まで映画の現場では男性主導、男性目線から「女性を典型的な型に押し込める」描き方が少なくなかったという。母親であれば夫を立て、息子を育て、家の中でひたすら耐える、といった具合だ。「当たり前だが、一人ひとり考え方は違う。そんな違いに対し、今までと異なる視点から立体的な部分を生かしてくれる女性のシナリオ作家、監督が増えている」という。
一方で、パク監督は「#MeToo」運動による影響というより、「『新しいものをみたい』という受け手の欲求に、作り手が応えようとしている自然な変化だ」と感じている。
上映前後、女性の監督による、女性が主演を固めた映画という観点から、複数の取材を受けたというパク監督。記者もそうした問題意識からインタビューを申し込んだ。日本では、後に東京五輪・パラリンピック大会組織委員会会長を辞任することになる森喜朗氏による女性蔑視発言がニュースになっていた時だ。
パク監督は冷静に答えた。「そこが気になるんだなあと逆に気づかされました。男性の監督による、男性が主演の映画だったら、話題にならなかったでしょうから」。
「私が死んだ日」の撮影現場はスタッフの男女比率が半々という「珍しい」光景だったという。ただ、パク監督にとってもっと新鮮だったのは、20代のスタッフたちが自分とはさらに違った自由な発想を持っていたことだった。「次の世代が作品を撮る頃、どんなものが生まれるのか、楽しみでならない」。その頃には「女性による」という取材の企画自体、時代錯誤で意味のなさないものになっているかもしれない。少なくとも、韓国においては。