2022年7月8日に安倍晋三元首相が奈良市内で街頭演説中に撃たれ殺害されてから約半年が経ちました。
銃撃事件の直後は容疑者の犯行動機などについてまだ詳細が明らかになっていなかったこともあり、「警備の甘さ」にスポットを当てた報道が多く見られました。
その後、政治家と旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)との癒着、山上徹也容疑者の母親が同宗教団体に1億円以上を献金したことで容疑者本人と兄弟が経済的に逼迫(ひっぱく)していたことなどが世間に知られ、いわゆる「宗教二世」にスポットが当たるようになりました。
親が宗教にのめり込むことで、本来は子供の教育費として使われるはずだったお金が宗教に使われてしまい、子供が思うように学べない事例もあることが明らかになっています。また友達付き合いや服装など生活の細かいことにまで制限がかかるなど「親の信仰による子供の被害」についても話題になりました。
当事者の中には小川さゆりさん(活動名)のようにメディアに顔を出して日本に大勢いる「宗教二世」の救済に向けた活動をしている人もいます。
日本でもドイツでも信仰の自由は保障されているので、どのような宗教を信仰するかは自由です。そうはいっても、「自分に明確な意思がないまま気が付いたら新興宗教に入っていた」という状況はやはり問題視すべきです。
今回は「宗教二世」の問題、そして「勧誘」などの問題について海外とも比べながら考えてみたいと思います。
ドイツで親権を剝奪された「十二支族教団」の信者
日本で最近よく聞くようになった「宗教虐待」という言葉。メディアも宗教がらみの子供に対する家庭内での心理的虐待や身体的虐待について取り上げています。
ドイツでは2013年に新興宗教Zwölf Stämme(「十二支族教団」)を信仰する複数の親の親権がはく奪されています。約40人の子供たちが児童養護施設や里親のもとで育つことになり、親たちは子供の学校や健康にまつわる選択はできなくなりなりました。
そのうちの4家族がこれを「家庭生活への不当な介入にあたる」と訴えていました。しかし、フランス・ストラスブールの欧州人権裁判所は2018年に「(子供に危害が及んでいるため、親権剝奪という)ドイツの判断は、家庭生活への不適法な介入ではない」と判断しています。
同団体では児童虐待が行われていました。虐待の実態が明らかになったのは、ドイツのテレビ局RTLのジャーナリストであるWolfram Kuhnigk氏が2013年に身分を隠し「ゲスト」として南部バイエルン州ダイニンゲンにある同団体の施設(修道院)に2週間弱、滞在した際に撮った数々の虐待の動画でした。
動画には、窓のない部屋で幼児が教団関係者にむちでたたかれる様子が映っており、これがRTLで放送されると検察が動きました。教団の施設のほかに、信者である親による家庭内での子供での虐待も明らかになり一部の親の親権剝奪につながりました。
家庭裁判所での調停中も一部の親が子供への暴力について「虐待ではなく教育の一環である」と主張していました。
「十二支族教団」ではむちを使った子供への暴力が「教育の一環」として肯定されていたためだと思われます。家庭裁判所は精神鑑定の結果「子供が親と一緒に住むことは虐待が続くことであり子供にとって心身ともに害のあること」だと判断したわけです。
新興宗教「十二支族教団」は2017年から宗教施設の拠点を「子供への体罰が禁じられていないチェコに移した」と報道されました。
輸血を禁じるキリスト教系の宗教団体「エホバの証人」
親は自らの信仰をどこまで子供に強制できるのでしょうか。
イギリス中部リーズでは2019年、重度の鎌状赤血球症のため5歳の女児に輸血が必要となりましたが、両親が輸血を禁ずる「エホバの証人」の信者であったため、輸血に同意しませんでした。しかし輸血をしないと女児の命に危険が及ぶため、医師が高等法院家事部の指示を仰いだところ、裁判官が女児の命が優先されるべきだと判断し、上記のケースでは親の意に反して輸血が可能となりました。
約13万人の信者が暮らすイギリスの国民保健サービス(NHS)は、「エホバの証人」信者の輸血について、医療関係者向けの詳細なガイドラインを設けており、患者が子どもだった場合の判断手順や、信者本人や医療チームの判断を支援するために24時間相談できる宗教団体側の連絡先も紹介しています。
ドイツでも「エホバの証人」信者の親が、子供の輸血に反対する事例が報告されています。
ドイツでは交通事故や化学療法の後に輸血をしないと子供の命が失われる可能性があったり、輸血をしないことで病状が悪化したり後遺症が残ったりする可能性が高い場合、医者が所管の児童福祉課に連絡をし、家庭裁判所の判断で輸血の期間に限定して親権を一時的に親から取り上げて児童福祉課に移すことが可能です。
筆者はミュンヘンで子供の頃に体操教室に通っていました。体操教室でクリスマス会を開く際に、ある親子が「うちは『エホバの証人』だからクリスマスは祝わない。よってクリスマス会にも参加できない」と発言しました。
1980年代のバイエルン州は今よりもキリスト教の影響が強く、イスラム教徒などを除き「クリスマスを祝うこと」はドイツの社会通念上「当たり前のこと」でした。
筆者が大人になってから、親が「エホバの証人」で、自身(筆者と同じ1970年代生まれ)は脱会したというドイツ人女性と話す機会がありました。
女性は「子供の時に自分だけクリスマスを祝えないことにずっと疎外感を感じていた」と話しました。1980年代のドイツで「親の方針でクリスマスを祝うことが許されない」のは、日本に置き換えると「親の方針で子供が学校の運動会に参加することが許されない」ことと同じようなものだと筆者は考えます。
ドイツでは、毎年12月に入るとクリスマスマーケットが開催されるなど、クリスマス関連の催しが多いのですが、女性は友達とこういった場に出かけることを親から禁止されていたといいます。
興味のない勧誘は「ハッキリと断る」ことが大事
1980年代や90年代のドイツでは某新興宗教の関係者が、戸別訪問による布教を頻繁に行っていました。筆者は家族の経験を通して「宗教はハッキリと断らないと面倒なことになる」と子供ながらに学びました。
自宅に勧誘の人が来てしまい、母(日本人)が対応したのですが、母は実際にはドイツ語が話せたにも関わらず「ドイツ語が話せないふり」をして勧誘を断ったつもりでいました。ところが同団体は後日「日本語のパンフレット」を持って再び現れたのでした。その時に家族で「こういうのはやっぱり最初からハッキリ断ったほうがよかったね」と話し合い、その宗教団体がキリスト教系だったことから「次回、来たら『仏教です』と言って断ろう」と約束したことを覚えています。
どんな時に勧誘されやすいのか 筆者が忘れられない勧誘
先日、友人数人と「新興宗教に勧誘されたことがあるか」という話で盛り上がりました。
日本にずっと住んでいた人、ヨーロッパやアメリカに住んだ経験のある人など様々なバックグラウンドの人と意見交換をしましたが、「勧誘されたことがある」という人の中で共通していたのは「見知らぬ土地に引っ越しをしたら勧誘された」「人生の苦境に立たされた時に勧誘された」というものです。
ある日本人女性は、アメリカに留学したばかりのタイミングである宗教団体に勧誘されたといいます。また別の日本人女性はドイツのある街に留学し、その街で住民登録をした直後に「学生寮の個人ポストに旧統一教会の日本語のパンフレットが入っていた」とのことで、「どうやって情報が漏れたのかを考えると怖かった」と話しました。ある女性は「父親の病状が悪化し、毎日悲しい気持ちを抱えながら過ごしていたら、(父親が入院中の)病院の中で宗教関係者だと思われる人から声をかけられた」といいます。
実は筆者にも似たような経験があります。
筆者が20歳の頃、長く交際していた男性に振られてしまいました。きっと悲しそうな顔をしていたのでしょう。ミュンヘンのある地下鉄駅のホームでベンチに座り電車を待っていると、"Glaubst du an Gott?"(「神様を信じますか?」)と話しかけてくる女性がいました。
筆者がその時どう返事をしたのか記憶があいまいであまり覚えていないのですが、はっきりと覚えているのは、「あ、悲しい顔をしていたから、勧誘されそうになったんだ…」と思ったことです。筆者の中ではこれがある種の教訓になっており「自分が不幸な時は要注意」と意識するようになりました。
一概にはいえないものの、「寂しい思いをしている時」「不幸に見舞われた時」「近くに親や知り合い、友達がいない時」というように、進学などで「知らない場所に引っ越しをした時」「初めて一人暮らしをした時」といった「人生の節目」が危ないのかもしれません。
同級生や知人からの「久しぶり」の連絡を警戒
学校や大学の友達、昔の同僚などから何年かぶりに「元気?久しぶりに会おうよ」という連絡があり、行ってみたら宗教やマルチ商法の勧誘だった――そんな話を聞きます。
筆者も久しぶりに連絡をもらうとうれしくてすぐに出かけていくのですが、幸い楽しく昔話をしながら近況報告をして交流が復活したことはあっても、宗教やマルチ商法に誘われたことはありません。
どちらかというと「新しい人間関係」のほうを、筆者は警戒します。
以前「異業種交流会があるからホームパーティーに行こう」と誘われ、行ってみたら、マルチ商法の勧誘だったことがありました。「しまった!」と思ってから「いかに笑顔のままこの場を抜け出すか」と考える時間がとても長く感じられ、ものすごいストレスでした。
でも、昔の人間関係しかり、新しい人間関係しかり――。警戒をするあまり何でもかんでも「勧誘なのではないか」と疑うのも悲しいと思います。筆者の経験では「楽しい人間関係」のほうが多いので、そう感じるのです。そうはいっても、頭の片隅に少しだけ「警戒の気持ち」を持っておくのが安全かもしれません。