ロックンロールとロック、どう違う? 「理由なき反抗」のダンス音楽からの変化
「あいつはジャズだ」「クラシックは死んだ」とは言わないのになぜだろう? 武蔵大学の南田勝也教授(社会学)に説明してもらった。
ロック講座1回目はロックの誕生とその特徴について。
――ロックという音楽が生まれたのはいつでしょう
ロックが自立するのは1960年代半ばですが、その10年前にアメリカでロックンロールが生まれています。
言葉の由来は、性行為を意味する隠語(ジャーゴン)で、ラジオDJのアラン・フリードが「ロックンロール!」と叫んだのが始まりと言われています。激しく腰をゆする行為が転じて、ビートにあわせてダンスする音楽にその名称が与えられました。
黒人音楽のリズム&ブルースと白人音楽のカントリー&ウエスタンの融合というのが今日の評価ですが、リズミカルなジャズやスウィングの感覚も引き継がれています。
ロックンロールはチャック・ベリーやリトル・リチャード、エルヴィス・プレスリーといったスターを生みました。
ただ、60年代初頭にロックンロールの流行はいったん下火を迎えます。それを復権させたのが、英国リバプール出身のビートルズです。
64年に全米ツアーをして、フィーバーを起こしました。彼らに続いてイギリスのビートバンドがこぞってアメリカに進出する「ブリティッシュ・インベイジョン」が生じます。アメリカはそれによってブルージー(ブルース風)な音楽を逆輸入し、再発見する流れになります。
――ビートルズはどうしてアメリカの音楽を知ったのでしょう
ビートルズの出身地リバプールが交易の要、港町だったことが大きいと言われています。
19世紀から、異国の音楽はまず港町で栄えました。船と一緒に珍しい品物や風変わりな慣習が入ってくる場所ですから。久しぶりに航海から戻ってきた男たちはまず酒場に行くわけですが、そこでは楽団が異国情緒あふれる音楽を演奏し、ダンサーが踊っています。
こうして伝えられる盛り場の猥雑な音楽、これがポピュラーミュージックの発展の歴史です。若きクオリーメン、後のビートルズですが、彼らがロックンロールを吸収して自分たちの表現にしたことには、そうした港町ならではの環境があった。このことは想像に難くないですね。
――ビートルズのツアーの後、アメリカでどんな変化が起きたのでしょう
やはりボブ・ディランの存在が大きいです。彼は60年代前半当時、ジョーン・バエズとともに公民権運動のシンボル的な存在で、「フォークのプリンス」の異名をとっていました。
各地でデモが起き、やがてベトナム戦争に対する反戦運動にもつながっていく。そこで彼の「風に吹かれて」などが歌われました。
そのディランが65年、ニューポートフォークフェスティバルにエレキギターを持ってステージに立ちます。フォークソングを期待した聴衆からブーイングが起き、「帰れ」と言われた。
ディランは数曲演奏しただけでステージを降りざるを得ませんでした。しかし、同時期に発売されたバンド編成の楽曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」がチャートを上昇します。フォークから新たな地平の音楽、ロックが誕生する瞬間を多くの人が目撃したのです。
――ロックンロールとロックを分かつのは何でしょう
ひとつには、ロックが評論の対象になったことがあります。
前史であるロックンロールはダンスミュージックでした。「ブルーカラーの日当職をこなす貧しい青年が、週末に親父の車を盗んでホームパーティに向かう。そこで軽快なロックンロールサウンドに乗せて踊り狂い、憂さ晴らしをする」というイメージです。
若者が大人に反発する構図は出来上がっていましたが、いかんせんそれは「理由なき反抗」でした。
それに対してロックは音楽としての複雑性を増していき、じっくり聴く価値のあるものに進化します。
その歌詞は解読するに値し、サウンドは精神の美を感受するものへと変化しました。
ビートルズとディランは互いに影響を与え合うのですが、彼らが生み出す抽象的な散文詩や、実験的な要素の濃い音楽は、評論家がまじめにその目的や理想について議論する対象となりました。いわば「抵抗するには理由がある」ことを示したわけです。
――ロックに人々がプロテストの要素を見るのはなぜでしょう
先ほどはロックンロールとロックの断絶の話をしましたが、二つには深化の側面もあります。
まず、エルヴィスが象徴的ですが、彼は「反逆児」の異名を取るほど、アメリカ南部のしきたりや保守的な風土に従おうとしませんでした。
昨年公開された映画「エルヴィス」のライブシーンに凄味を感じたのが、周囲が止めるのも聞かずにステージでいわゆる「腰ふり」をやってのけるシーンです。
ふつう逮捕されるかもしれないとなると、パフォーマンスのひとつやふたつ封印しますよね。ところが論理よりも、情動や衝動が勝つ。
実はパフォーマンスをしないことでファンが暴れ出すことを防ぐ冷静な判断だったという説もありますが、伝説的なその無鉄砲さは、保守的な大人社会への反抗の意味を強化する役割を果たします。
ロック時代にいたって、ターゲットは身の回りの頑固な大人だけでなく、あらゆる体制や差別や偽善的態度に向かいます。徹底した常識破壊ゲームが行われたということです。
ドラッグの見せる幻想的ビジョンは当たり前の日常的な光景を否定し、精神世界への超越は労働本位の価値観をゆさぶる。ベトナム戦争への忌避感情を利用して、風変わりなヒッピー運動とむすびつく。徴兵を拒否して国家体制のいいなりにならないことを宣言する。カウンターカルチャーですね。
そのなかでプロテストソングも、この時代は国家権力による圧政や悪政に抵抗するものが中心ですが、さまざまに歌われていく。
――そうした態度が歴史的に受け継がれてきたということですね
そうは言っても、理知的に言葉で反体制の意図を語るだけでは長続きしなかったと思うんです。
例えば、ビートルズの「抱きしめたい」をリアルタイムで聴いた人は、そんなやわなものでなく「かみつきたい」くらいの印象を受けたと語っています。「ツイスト&シャウト」だと題名通りシャウトしていますが、要するに肉体そのものが発する強さに人々はパワーを与えられたわけです。
ディランのしゃがれ声や字余り、わざと音程を外した歌い方は、音楽的にはたしなめられるものでしょうけど、それでいいんだ、常識なんて吹き飛ばせ、という逸脱への勇気を人々に与えます。
つまり、ロックが受け継いできたものとは、若者ならではの蛮勇や初期衝動のアティチュード(態度、姿勢)ということになるでしょうね。
「ロックが死んだ」と何回言われようとも、何回も復活してくるのは、新陳代謝が活発だからです。
――ロックは歴史の中でどういう役割を果たしてきたのでしょう
社会で抑圧されている人たちの「願い」や「祈り」を代弁してきたことでしょうか。
たとえば国家が戦争を始めてしまったら、一市民としては無力じゃないですか。しかし願ったり祈ったりすることはできる。
ウッドストック・フェスティバル(1969年)は愛と平和を掲げて反戦運動の代名詞になりました。また「ライブ・エイド」(1985年)は、アフリカ難民救済の願いをロック音楽に託した世紀のイベントとなりました。ライブエイドはイギリスとアメリカを衛星中継でつないで開催したのですが、アメリカ側の出演者は黒人ミュージシャンの比率も高く、人種混交の理想を表現する舞台ともなりました。