ウクライナ西部にあるトルスカベツ市立病院は、できてからもう何十年もたつ古い医療センターだ。義肢を扱う診療部門は、ずっとなかった。
しかし、ものごとは変わることもある。ときにはわずか数秒で。それも、飛来するミサイルの轟音(ごうおん)とともに。
ウクライナでは義肢の需要が膨らみ続けている。この病院も例外ではない。あてがわれた二つのフロアは今、それを必要とする負傷兵であふれんばかりになっている。
Semyon(27)(以下、人名は英語表記)は、ウクライナ北東部のハルキウ経由でここに来た。2022年2月24日にロシアがこの国に侵攻し、戦場の一つとなったところだ。
その日の朝、彼は高射砲部隊の通信士兼信号手として戦っていた。そこに、迫撃砲弾が降ってきた。わずか20分の間に43発も受けたという。
右足を失った。
最初に義足を着けてもらったときのことをよく覚えている。「これは、自分の足ではない。そう理解するまで、とても戸惑った」
でも、病院のスタッフは、よく面倒を見てくれた。
「今は、すべてうまくいっている」
Semyonはプライバシーを守るため、姓は報じないよう求めた。兵士にはよくあることだ。
Misha(27)は両足を失い、新たな愛称をもらった。所属していた突撃旅団では、「野蛮人」で通っていた。今、患者仲間からは(訳注=その体の鍛え方から)「アクロバット」と呼ばれる。
南部ヘルソンや東部ルハンスク、ドネツクの各地を転戦した。ルハンスク地方のビロホリウカ付近の渡河地点をめぐる攻防で、飛んできた破片にやられた。今は義足ができるのを待ちながら、病院の小さなフィットネスジムで体力作りに余念がない。
「以前は82キロあった体重が、10キロ減った」
Ihor Zobkiv(22)は、乗っていた装甲兵員輸送車が中南部ミコライウ北方で対戦車障害物に乗り上げ、負傷した。左足の下腿と右足の一部を失った。
この病院に来て、もう数カ月になる。でも、時間を無為に過ごしたりはしない。夏には地元のカフェで昼食をとっていて、若い女性と出会った。結婚する約束ができている。
熱望することは、まだある。「軍で任務を続けたいんだ」
戦争が始まって間もないころから、義肢の必要性が強まることは予想できた。四肢を失った兵士たちが、前線から送り返されてきたからだ。
首都キーウにある義肢製造工場のオーナーは、すでに春には生産体制の強化を目指し始め、勤務シフトを2交代制、3交代制へと増やしていった。それほど義肢を必要とする兵員は多くなっていた。
Serhii Zvyagin(34)は、砲撃で仲間2人を失い、自分は負傷した。今は、義肢がいつ届くとも分からぬまま、待たされている。
義肢は病院の外部の専門家によって作られ、ピッタリ合うように仕立てられる。しかし、負傷兵が増えるにつれ、遅れも珍しくはなくなった。
トルスカベツ市立病院のようなところでは、義肢の提供にとどまらず、どう使うかも密に教えている。
国立公園職員のVanya(34)は、歩兵突撃部隊員として東部ルハンスクで従軍中に右手を失った。今は左手で書く練習に励んでいる。
「義手ができるのを待っている。当初は手先がフック型のものを提案されたが、嫌だった。いずれは、もっと新しいタイプをもらえることを願っている」
この病院に送られてくる負傷兵には、戦場のトラウマを抱えている者もいる。単なる治療だけでは済まない。
そのための場もできている。病院の二つのフロアを義肢部門用に改装した際、廊下の一部が教会として作り直された。
トルスカベツ市立病院に義肢診療部門が開設されたのは、22年3月だった。数カ月もたたないうちに、廊下には小さなコミュニティーができるようになった。患者と医療スタッフだけではない。家族やかつての従軍仲間も加わり、そこには連日のように活発な輪が広がっている。
「患者同士に友情が芽生え、家族同然になる者もいる」と医師の一人Pavlo Kozakはいう。「こうして精神、肉体の両面でリハビリができる環境を作っていきたい」
新しい義肢が病院に届くと、一大イベントになることもある。一目見ようと、患者たちが集まる。ときには、検査でもするように、一人ずつ手に取って見つめる。自分の将来をのぞき込んでいるようにも見える。
好奇心だけでそうするのではない。戦場では苦楽をともにする仲間だった。その関係は病院でも続く。
冒頭のSemyonに病室で義足が取り付けられた。脇には妻がいた。廊下からは負傷兵の仲間たちがのぞき込んでいた。
そして、最初の一歩。声援が飛び交った。
こうした負傷兵がいるのは、この病院だけではない。キーウのリハビリセンターには、南東部マリウポリの防衛にあたった兵士たちがいる。最もよく知られた戦場の一つだ。
ロシア軍は、この港湾都市を早い時期に包囲した。住民は電気も水もない状態で閉じ込められた。アゾフ大隊の隊員たちは製鉄所に立てこもり、80日間も抗戦して名声を得た。
こちらのセンターに入院中のVladyslav Tkachenkoは、その一人だ。アゾフ大隊の一員として配置されていた陣地が空爆された。
「覚えているのは、爆発の瞬間だけ。あとは記憶にない」
今回の全面侵攻に踏み切る前に、ロシアはクリミア半島を2014年に占領している。ウクライナ側は、その際に義肢の専門知識を学ばざるをえなかった。
このときの戦闘でVladyslav Korenok(32)は片足を失った。キーウのリハビリセンターを22年8月に訪れ、自分の義足を「後輩」たちに見せた。
トルスカベツ市立病院が義肢を扱う施設として選ばれたのは、ある意味では思わぬ偶然だった。ソ連時代の建物で、設計は優雅さには欠けるものの、ゆとりを持った構造になっていた。幅の広い廊下や戸口、トイレは、車イスでの移動を容易にしてくれた。
建物の全面改築は不要だった。しかし、病院の一部のスタッフには、「頭の改造」が必要だった。新しい診療部門の患者を受け入れるのに、多くを学ばねばならなかった。
「この戦争が始まるまでは、脳卒中の患者や外傷に悩む人々の治療とリハビリにあたっていた」と先の医師Kozakは語る。「義肢が必要な患者の経験は皆無だった」
そんな状況は一変した。これまでに、ここの義肢診療部門は150人ほどの患者を受け入れた。
みな、自分の新しい四肢をここで待ち受ける。そして、それとともにやってくる新しい人生を。(抄訳)
(Eric Nagourney)©2022 The New York Times
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