フィンランドは「欧州の屋根のてっぺん」に近い有利な地理特性を生かし、アジアの旅行客の玄関口としてここ数十年、高い人気を誇ってきた。そのフラッグキャリア「フィンエアー(フィンランド航空)」はロシア上空を経て、欧州のどの首都に飛ぶより数時間も短いフライトで東京やソウル、上海とヘルシンキを結んでいた。
乗り換えを便利にするため、新しい空港ターミナルさえ造った。投資額は計10億ドル弱。案内表示は日本語、韓国語、中国語で書かれ、中国人観光客が好きなカップ麺用に給湯器まで備えている。
ところが2022年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻した。フィンランドが時間をかけて入念に作り上げてきたアジア路線のゲームテーブルは、一夜にしてひっくり返された形となった。
ロシアは、ほとんどの欧州の航空会社に対して領空を飛ぶのを禁じた。対ロ制裁で、自国の飛行機が欧州の空をそれまでのように飛べなくなったことへの報復措置だった。
フィンエアーは、ロシアの領空を3千マイル(約4800キロ)も飛ぶルートを変更せねばならなかった。ヘルシンキまで9時間で済んだフライトは、13時間もかかるようになった。燃料費も40%増えた。アジアからの最速ルートであり、欧州各国への一大乗り換え拠点となる――そんな優位性は、はかなくも消えた。
フィンエアーのビジネスモデルの突然の崩壊は、ウクライナ戦争が世界中にもたらした経済的な大変動の一つにすぎない。
ロシアに大量の資金を投入したり、この国と多額の取引をしたりしていた企業は、即座に影響をこうむった。米イエール大学経営大学院の資料によると、1千社以上ものこうした企業がロシア市場から撤退を余儀なくされた。
加えてエネルギー価格が急騰し、さまざまな分野を襲った。オペラを上演していたハンガリーのエルケル劇場は関連経費を払えず、一時的な閉館に追い込まれた。ドイツのトイレットペーパー製造会社の最大手ハクレは、関連費用がかさんで倒産。陶磁器やガラス、化学、肥料などの欧州各地の生産設備でも、規模の縮小や一時休業が相次いだ。
菓子業界はウクライナからヒマワリ油が十分に入らなくなり、ヤシ油などの代替品の確保に追われた。このため、原料供給ルートの再編や生産体制の見直し、さらには製品ラベルの作り替えまで必要になった。「非アレルギー性」「非遺伝子組み換え食品」と表示できなくなったからだ。
ロシア領空が閉ざされ、日本航空と全日空は一時的に欧州便を欠航させた。2022年10月には、バージンアトランティック航空が香港便の運航をすべてとりやめた。それにもまして、フィンエアーへの影響は極端なほどひどかった。
「アジア戦略は20年かけて練り上げてきたものだ」。フィンエアーCEOのトピ・マンネルは、ヘルシンキ国際空港(所在地:ヘルシンキ近郊のバンター)に隣接した本社で唇をかんだ。
各種のサービスは、アジアの利用者の好みに合わせて整えてきた。機内では、映画の半分は日本語、韓国語、中国語の吹き替えか、字幕が出るようになっている。食事のメニューには、ガーリックやオイスターソースで中国風にカリッと仕上げたチキンがある。さっと強火でいため、薬味をきかせたソースにひたした韓国風ポークには、チンゲンサイとご飯が付いている。ヘルシンキの地上カウンターは、言語に精通している職員をそろえている。
コロナ禍以前は、フィンエアーの収入の半分はアジアからの乗客がもたらしていた。ヘルシンキをハブにする乗り換え客が落とす収入は、全体の60%も占めていた。
しかし、ウクライナ戦争のトンネルの出口は見えてこない。「ロシアの空は欧州の航空会社には長期にわたって閉ざされているだろう」とフィンエアーの経営陣が結論づけるのにそう時間はかからなかった、とマンネルは振り返る。だから、「新しい現実に適応せねばならない」。
フィンエアーは2022年夏にアジア各地と結ぶ76路線を運航したが、2019年夏には198路線もあった。全体としては、運航能力の68%しか使えていない。2022年上半期の営業損失は2億1700万ユーロに上る。
「組織の再編は喫緊の課題」とマンネルは話す。
ある意味では、コロナ禍が始まり、世界中の移動が事実上止まった2020年の初めごろからフィンエアーは再編過程にあるともいえる。とくに、中国の厳しい「ゼロコロナ」政策が響いている。上海を始め大都市でのロックダウンは22年も続き、東西間の動きは大幅に減ってしまった。
このため、国内に大きな旅客市場があったり、他の方面で主に運航したりしている航空会社と比べて、フィンエアー(半分は国が所有)の業績回復は後れをとってしまった。生き残りをかけてさまざまな手を打ってきた。従業員の一時解雇、経費節減、30億ユーロの新たな資金調達……。「コロナ禍を縫うようにして活路を作ってきた」とマンネル。「ただし、戦略の前提は、常にアジアに戻ることにあった」
それも、もう終わりだ。フィンエアーは2022年9月、正式に180度の方針転換を発表した。「私たちのネットワークを、東から西に移すことにした」とマンネルは戦略変更を説明する。提携先を米アメリカン航空や英ブリティッシュ・エアウェイズなどに拡大。2022年春には、米ダラス・フォートワースに週4便、シアトルに週3便を新たに就航させた。ストックホルムとコペンハーゲン、インド・ムンバイとカタール・ドーハへの新路線も発表された。
ジェット燃料の急騰は続いており、自社の保有機やクルーを他社に貸している。それにとどまらず、保有機と要員の規模を縮小し、コストを削減する計画も立てている。
この3年間でフィンエアーは計13億ユーロの損失を出した。2024年には、再び利益を計上できるようにするのが目標だ。「これが正しい方向性なのかどうか。結果が出るまでには、まだしばらく時間がかかるだろう」。北欧の金融サービスグループSEBの航空アナリスト、ヤーッコ・トュルバイネンはこう見ている。
戦略の転換は、2022年6月にオープンしたばかりの新しい空港ターミナルビルにとっても必要なようだ。空港ターミナルの利用客数は、旧ビルが2019年は2200万人弱だった。新ビルは、2030年までに3千万人を見込んでいた。ところが、そんな予測は今や机上の空論になってしまった、と空港当局者は明かす。きちんとした見通しを立てるには、あまりにも不確定要素が多いからだ。いえるのは、2023年は1500万人ほどが利用するだろうということぐらいだ。
新空港ターミナルのプロジェクトは、10年近く前に動き始めた。アジアから来る乗り継ぎ客の利便性向上が狙いで、大半の人が空港の外に出なくてもよいように企画されていた。
フィンランドの空港ターミナルを運営する国営企業Finaviaは、ヘルシンキ空港(コード:HEL)については2017年にマルチメディアによる宣伝キャンペーンを展開している。
ターゲットは主に中国人客。2004年の米映画「ターミナル(原題:The Terminal)」(訳注=旅券が無効になり、空港ターミナルに閉じ込められた男を描いた作品)にちなんだこのキャンペーン動画の題名は「HELでの暮らし(英題:Life in HEL)」。中国人の人気俳優でインフルエンサーのライアン・チューが、(訳注=ターミナルを紹介しながら)ここで1カ月にわたって暮らす様子が映し出されている。
そして今、欧州以外の乗客用に広大な新ターミナルができた。しかし、利用客の姿はほとんどない。最近の平日の午後、ここを訪ねてみると――。
まず、出入国管理の一角。並ぶ列を導く長く曲がりくねったレーンには、人けがなかった。次に、広々とした待ち合わせ場所。ゆったり座って、フィンランドの景色を流すビデオを見ることができるが、リュックサックを背負った女性が一人いるだけだった。
日本人にとくに人気のムーミングッズ。しかし、ムーミンショップには客はだれもいなかった。中央の廊下をさらに進んだムーミンカフェもガラガラだった。「午前中は、普段は客足が鈍い」とムーミンストアで働くリッチェリ・デル・カルピオは話す。客が多くなるのは午後になってからで、「全体として商売はまあまあ」という。
欧州向けの旧ターミナルは、にぎわっていた。ただし、ターミナルの長いホールに沿って並ぶ店やカフェのほとんどは、人影があまりなかった。ガランとした空間もいくつかあり、貸し出されていないか、シャッターが下りていた。
ターミナルを運営するFinaviaの開発担当副社長サミ・キイスキネンは、新ターミナル建設に伴う数億ユーロの借り入れはいずれ返済できると断言する。ただ返済期間の調整は必要で、「交渉はすでに始まっている」と明かす。ウクライナ戦争が長引き、欧州の空の便にロシア領空が閉ざされたままになる公算は大きい。にもかかわらず、キイスキネンは楽観的だった。
「われわれが立てた戦略を今も信じている」というのだ。そもそもターミナルのような大型インフラの開発は50年先を見据えている。
「プーチンがそこまで永遠にいることは、まあないだろうからね」(抄訳)
(PatriciaCohen)©2022 The New York Times
ニューヨーク・タイムズ紙が編集する週末版英字新聞の購読はこちらから