韓国には、長く親しまれてきた独特の家賃制度がある。「チョンセ」と呼ばれるシステムだ。
その仕組みはこうだ。
まず、家の借り手が持ち主に対して、一定の金額の保証金を預ける。持ち主は、受け取った保証金を様々な形で運用して収入を得る。
そして、借り手が家を退出する時にはその資金が全額、借り手に戻ってくる。
保証金の金額は千差万別だ。学生が住むようなワンルームの部屋から庭付きの家までさまざまなタイプごとに、持ち主の希望や借り手の事情に合わせて、その時代の金利や住宅価格に合わせて決まることになる。
チョンセの保証金の額は最近では、おおむねマンション売買価格の70%ほどのケースが多い。
例えば、10億ウォン(約1億円)のマンションなら、チョンセの保証金はだいたい7億ウォン前後、ということになる。
韓国にも、毎月一定の家賃を払っていく仕組みはある。「ウォルセ」と言う。
ウォルセの場合も家の持ち主に保証金を払うが、これは入居者が万一、何らかの事情で家賃を払えなくなった場合などに備える家主の「安全装置」のようなものだ。
多くの場合は、借り手が月額家賃の1年分以上を保証金として預け、そのうえで毎月、一定の額を家賃として払う。
退出する時に未納の家賃や部屋の損傷などがあれば、その分を差し引いて保証金が戻ってくるという仕組みだ。
韓国では「家を準備する」という場合、次のような段階を踏んでいくことが多かった。
最初にまとまったお金が用意できない場合は、まず「ウォルセ」で毎月家賃を払って住みながら、「チョンセ」の保証金になるだけのお金を少しずつためていく。
たまればそのお金を保証金にして「チョンセ」に転換し、そうして暮らしながら、さらにお金を貯めて、最終的には自分の家を買う……。
「ウォルセ」は毎月の家賃、すなわち、「戻ってこないお金」を払わないといけないので、最終的にはお金が戻ってくる「チョンセ」の方が好まれた。
私が大学生時代に日本へ留学したとき、最も驚いたことの一つは、日本人が払う毎月の家賃の金額だった。数万円の家賃を毎月払う友人たちをみながら「そのお金がもったいないな」と思ったものだ。
反対に、自分が社会人になってからは、日本の友人たちがソウルに来て、チョンセの制度を経験し、「ただ」で家を借りられるのがとてもうらやましいと驚いていた様子を何度もみてきた。
ただ、こうしたチョンセのシステム自体が最近、韓国でも続けていくことが難しくなりつつある。
2011年に韓国の国土交通省が4万2千件の賃貸契約を対象に公開した資料によると、「チョンセ」は75.7%を占めていた。
ただ、大法院(最高裁)の登記情報システムによると、2022年6月に韓国の17の市・道で成立した賃貸契約21万件のうち、ウォルセによるものが50.3%に達し、わずかにチョンセを上回った。
まず大きな理由は、日本でも報道などで知られるようになった韓国の最近の不動産価格の高騰だ。ソウルのマンションの平均売買価格は過去5年間でみても2倍以上に急騰した。
家の価格が上がりすぎて、購入はおろか、売買価格の何割かにあたるチョンセの保証金を用意すること自体が多くの人にとっては難しくなった。
住宅価格の上昇には、少し前まで流行した「GAP」(差額)投資と呼ばれる新たな住宅投資の方法も大きく影響している。
チョンセで入居している物件を別の第三者が購入するケースが主で、購入者はチョンセによる保証金も名義変更で受け取れるため、購入資金は物件価格の差額分(3割程度)だけ自己資金か融資資金で用立てればいい。
購入後、その物件が値上がりすれば売却益を手にすることもできることから、比較的少額で住宅投資ができるとあって、若者の間でも人気を集めている。
「霊魂まで集めてでも家を買おう」といった言葉が流行するほどに、20~30歳の若い世代まで無理な借り入れによって多くの人々が住宅を購入した結果、全国のマンション価格は非常識的な水準まで上昇してしまった。
実際に住むためではなく、無理な投資のためだ。あっという間にものすごく上昇してしまった住宅価格によって、いまチョンセの保証金も、庶民がとても耐えられないような水準になった。
また、チョンセは保証金を受け取った家の持ち主が、運用で十分な収入を得られることが大前提になる。
最近は韓国銀行(中央銀行)による相次ぐ金利の引き上げで少し上昇しているとはいえ、かつてと比べれば低い。家の持ち主も十分な利息収入が得られなくなった。
「チョンセ」が韓国で長い間、維持されてこられた理由は、家の所有者と家を借りる人の間で利害関係が一致したからだ。
契約の終了時に保証金が帰ってこないリスクもあり、最近も実際、そうした被害が出ているものの、借りる人は保証金を一定期間預ければ、その後追加の費用はない。
所有者はまとまったお金を受け取って運用し、利子収入を得るか、あるいはさらにほかの投資先にお金を投じられるという魅力があった。
韓国銀行(中央銀行)の統計によると、1996~1998年の貯蓄性金利は10%を超えていた。金利が10%以上にもなれば、家の所有者は保証金を銀行に預けるだけでも多くの収入が得られる。
所有者と借りる人には「ウィンウィン」の関係があった。しかし、現状のような低金利の時代になると、話は大きく違ってくる。
チョンセが難しくなるなかで最近、住宅市場で流行しているシステムが「半チョンセ」だ。
チョンセとウォルセを組み合わせたもので、毎月支出して消えてしまう家賃をもったいないと考える韓国人の考えでは、「半チョンセ」という新しい家賃のシステムは現実に合っている。
手元にあるだけのお金をまずチョンセの保証金として家主に預け、足りない額は毎月少しずつ家賃として払っていく方式だ。
韓国人にとって、いずれ全額が戻ってくる資産であるチョンセの保証金は、一種の「人生の支え」だった。毎月払う家賃がないから貯金を少しずつ進め、一定の達成感も得ることができた。
私が初めてソウルに来たのは20代のころ。両親が用意してくれたお金をチョンセの保証金として、遠い親戚の家の部屋の一つに住んだ。
その後、社会生活をはじめ、少しずつ貯めたお金と銀行からの借り入れによって、さらに少し良い家に引っ越しながら大きな喜びも得ることができた。チョンセの保証金は結婚するときも、家を買う時も大きな助けになってくれた。
韓国の親たちは子どもがソウルの大学に行くとき、就職のために上京する時、結婚するとき、どういう形であってもチョンセの保証金を準備して住居を用意してあげたいと思うものだ。
そうすれば、月給から住居費を支払う必要がなくなるので、生活に余裕が生まれる。だがいまや保証金は急騰し、両親が準備するのも、本人は自分で貯金して用意するのも難しい。
慎ましく節約して貯蓄をして、こつこつとチョンセの保証金をためる、という時代は過ぎつつあるようだ。
急激な経済成長期に韓国人が満喫した住宅システムの恩恵を得られたのは、私が運の良い世代だったからかもしれない。
だが、貧富の格差を小さくしていくためには庶民と若者を守らないといけないし、そうした人たちの住居と生活基盤の安定を社会として支援しないといけない。
今までの世代が享受したシステムを現実の状況にあわせて補いながら、今後の世代が安心して住める家を手に入れ、自立できるように助けることが先輩の世代の当然の義務だ。
これまでの韓国の親たちは、子どもの生活の安定のために家を用意してあげたいと思ってきた。
いま、家を買うことが空の星をつかむかのごとく難しくなったいま、10歳になる私の娘が成長して独立する未来に、私も少額であってチョンセの保証金を利用して娘が人生を支える資金を用意してあげたいが、さてどうなるか。今から心配だ。