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増谷浩司さんのステーキナイフはまるで日本刀 即完売で4年待ち、世界が注目する異才

Breakthrough 突破する力 更新日: 公開日:
包丁を研ぐ増谷浩司さん=林敏行撮影
包丁を研ぐ増谷浩司さん=林敏行撮影

ギザギザがない。丸みを帯びた優美なデザインは、バターナイフのよう。なのに、厚みのある肉も、軽く引くだけですっと切れる。そんなステーキナイフがある。

ファンは国内にとどまらない。オランダの三つ星レストラン「デ・リブライユ」のジョニー・ボワさん(57)も「デザインも切れ味も唯一無二。料理の最高のパートナー」と絶賛する。

インターネットで販売を告知すれば即完売。1本数万円からで、生産が追いつかず4年待ちだ。

JR福井駅から南に30キロ。700年続く越前打刃物のまち越前市に「龍泉刃物」はある。祖父に父、父の兄弟4人もみな刃付け職人。増谷浩司さん(61)は、食卓に作りかけの包丁が並んでいるような環境で育った。

「誕生日が7月12日でナイフの日。幼心に、これは運命だなって」

高校卒業後、職人の道へ進む。現代の名工の清水正治さん(81)は「おじいさんの代から腕は確か。さらに(浩司さんは)職人には珍しく人当たりもいい」と話す。

家族そろって包丁研ぎの職人。生前の父浩さん(中央)と浩司さん(左)、弟の泰治さん(右)=龍泉刃物提供
家族そろって包丁研ぎの職人。生前の父浩さん(中央)と浩司さん(左)、弟の泰治さん(右)=龍泉刃物提供

2008年、代を継いだ。その矢先にリーマン・ショックが起こる。工場を増設したばかりだというのに、注文が来ない。資金繰りのため、銀行や問屋に頭を下げる日々。職人たちの給料を守るため、自らの蓄えもなげうった。

もう海外で売るしかないーー。

包丁を持って飛び込みで営業を続け、ようやくドイツの見本市に出られることになった。

与えられたのは端の小さなブース。興味をもってもらっても、フォロー態勢が整っておらず、なかなか契約にこぎつけられなかった。労力の割に成果が少ないと感じた。

そんなある日、フランス料理人の浜田統之さん(46)=現「星のや東京」総料理長=が訪ねてきた。軽井沢の新店舗で用いるステーキナイフを作って欲しいという。

当時は、食材も食器もフランスのものを用いるのが主流だった。浜田さんは「日本のえりすぐりをそろえて、日本人の自分にしか作れない料理を発信したい」と話した。

「やります」

増谷さんは即答した。これまで家庭用の包丁しか手がけていなかったが、浜田さんの考えに共感し、力になりたいと思った。当時を知る職人の北村拓己さん(33)は、「え、まじかよって。現場は混乱しました」と話す。

試作品を見た浜田さんは「確かによく切れる。でもお客様はナイフでソースをぬぐうこともある。口が切れてしまっては食事を楽しめない」と言った。

切れ味と安全性を両立させるにはどうしたらいいのか。世界中のステーキナイフを集めて研究した。

だが、どんなに改良を重ねても、浜田さんは首を縦にふらない。増谷さんは「何がいけないのかもわからないけれど、絶対に作りたい。もう、職人としての意地でしたね」と振り返る。試作品は100本を超えていた。

2012年の盆、思いがけない転機が訪れる。小中学校の同級生の集まりで渡辺弘明さん(61)に35年ぶりに会った。東京で工業デザイナーをしていた渡辺さんにステーキナイフの話を持ちかけた。

渡辺さんがその場でスラスラと描いたラフ画を見て、増谷さんに衝撃が走った。

「恐怖感がなくスタイリッシュ。デザインとはこういうことなのかと思った」

増谷さんが作っていたものは包丁をただ小さくしただけのものだった。

渡辺さんが描いたステーキナイフのラフ画=株式会社プレーン提供
渡辺さんが描いたステーキナイフのラフ画=株式会社プレーン提供

渡辺さんは後日、デザイン画を仕上げてきた。ナイフは利き手にかかわらず右手で持つことに着想を得て、指をかけやすいよう左右非対称に。柄と刃の部分は流れるような一体感をもたせた。まるで日本刀のようだった。

浜田さんはすぐに気に入った。軽井沢の店の開店には間に合わなかったが、このころ、浜田さんは「フランス料理の五輪」と言われる国際料理コンクール「ボキューズ・ドール」の日本代表に選ばれていた。3カ月後の本番までにナイフを完成させて欲しいという。

渡辺さんのデザインを形にするため、増谷さんは作り方から見直した。ステーキナイフはふつう刃の先にギザギザをつけることで食材とのひっかかりを作っている。しかし、それでは日本刀のイメージからは離れてしまう。

ナイフの切れ味で食感も味も変わるはずだ。食材の繊維を美しく断ち切ることができれば、水分を保ち、肉汁やうまみを閉じ込められるのではないか。

かたときもステーキナイフのことが頭から離れず、工房にこもる日が続いた。

以前ホンダのF1チームの総責任者を務めた保坂武文さんも、素材や加工、デザインについて助言をしてくれた。

ある時ひらめいた。異素材の硬さの違う鋼を組み合わせることで、削れ具合の違いがやすりのようになり、食材がひっかかるようになるのではないか。

刀の技法を参考にし、硬質と軟質の素材を伸ばして折りたたみ、たたいて伸ばし、これを繰り返して70層重ねた。

これにより、肉の組織よりはるかに小さい10ミクロン間隔の目には見えない細かい凹凸が刃先に入り、ギザギザの役割を果たした。

片刃にすることで安全面にも考慮した。仕上げの工程では、刃の表面に凹凸の美しい波紋も浮かせ、個性と「和」の美しさを引き立たせた。

こうして、2年半の歳月をかけて、食材にあてるだけでは切れないが、引くだけでなめらかに切れるナイフが完成した。

ステーキナイフ=林敏行
ステーキナイフ=林敏行撮影

そして迎えた「ボキューズ・ドール」。

浜田さんは、魚料理でもステーキナイフを提供することにした。ヒラメとオマールエビのムースを重ねた一品。

ナイフで切ったときに断面が崩れると、見た目も口の中に入れたときの食材のバランスも変わってしまう。

増谷さんは「切れないとナイフに気を取られてしまう。ナイフはあくまでも引き立て役。ストレスなく切れることが何より大事だと思っていた」と話す。

「ボキューズ・ドール」で提供されたヒラメとオマールエビのムースを重ねた一品=ⒸGL events/Bocuse d’Or2013
「ボキューズ・ドール」で提供されたヒラメとオマールエビのムースを重ねた一品=ⒸGL events/Bocuse d’Or2013

魚料理は最高点をとり、浜田さんは日本人史上初の3位に選ばれた。24カ国の審査員の半数がステーキナイフをポケットに忍ばせて持ち帰ったことを知った。

名は一気に知れ渡った。注文の電話が鳴りやまず、ネットのサーバーはパンク状態。一つ一つ手作業で作るため、1カ月に100本が精いっぱい。4年待ちになり、いったん受注を止めた。

ここから増谷さんの快進撃が始まった。レターオープナー、ボンボンショコラやシュトーレン専用のナイフ、子ども用の包丁……。

星付き店「シンシア」オーナーシェフの石井真介さん(46)が「願いを全部聞いてもらった」という包丁は、知り合いの猟師が撃った鹿の角で柄を作った。「難しい注文ほど、燃える」という。どんなに細かな要望にも応えた。

今、日本では140の飲食店やホテルと取引がある。欧米やアジアなど14カ国の拠点には、包丁を研げるスタッフが常駐し、売り上げの4割を海外が占めるようになった。

浜田さんは、増谷さんの躍進を「当然の結果」と受け止める。「ここまでしかできません、と絶対に言わず、常に進化を求めている。潜在的な素晴らしさに自分たちが気付いていないだけだった」と話す。

工房では今、10〜30代の8人が腕を磨いている。最近、次女の美香さん(29)が継ぎたいと言ってくれた。後を任せられる環境は整いつつある。「切るという要素さえ入っていれば、どんなものでも手がけたい」。越前打刃物を世界に広めるため、挑戦し続けるつもりだ。