1985年当時、ソ連は社会の停滞にあえいでいた。河東氏はこう振り返る。
「ブレジネフ書記長の後に登場したアンドロポフ氏は規律強化を目指しましたが、約1年で死去しました。後任のチェルネンコ氏は外交や政治のセンスがないうえ、やはり1年ほどで死亡しました。ゴルバチョフ氏は、新しい方向が見つからずに悩むソ連のインテリ層から歓迎されました」
河東氏は当時、ゴルバチョフ氏が外相に就任したシェワルナゼ氏とともに「ソ連は本音と建前が一致せず、ウソで塗り固められた国だ」と会話していたという、西側放送局の報道を聴いた覚えがある。
当時、原油価格は1バレル20ドル水準から10ドル水準に下落する動きを示していた。エネルギー輸出に頼るソ連上層部は財政状況に危機感を持ち、社会主義改革の必要性を感じていた。
「ゴルバチョフ氏は社会主義の立て直しを明確に掲げました。当時のレーガン米大統領よりもはるかに若く、ソ連の人々は喜んでいました」(河東氏)
ところが、ゴルバチョフ氏が掲げた構造改革「ペレストロイカ」(立て直し)と、情報公開や言論の自由化などの「グラスノスチ」は失敗に終わった。河東氏によれば、ペレストロイカによって経済の規制緩和が進んだことが逆効果になった。河東氏は言う。
「ゴルバチョフ氏は各企業トップに経営を委任しました。各企業の構造改革を期待しましたが、企業トップが個人的に資金を横領したり、資金を労働者の賃上げばかりに使ったりする事態を招きました。企業は労働者が賃金の高い他の企業に移ることを防ぎたかったからです。結果的に労働者の賃金が底上げされ、インフレ圧力が高まる結果になりました」
各企業やマフィアはインフレによる物価上昇を見込んで売り惜しみに走った。その結果、街の商店から品物がなくなる現象が起き、市民の不満が急上昇した。この状態は1991年12月、ゴルバチョフ氏がソ連大統領を辞任し、ソ連が解体するまで続いたという。
ゴルバチョフ氏の業績を巡っては、日本を含む西側社会とロシアとでは正反対の評価に割れている。河東氏は「西側は自由や民主主義を強調しますが、実際はロシアが問題を起こさず、石油や天然ガスだけを売る都合の良い国になったことを評価したのです。一方、ロシアの人々の目には、ゴルバチョフ氏は国をバラバラにした張本人だと映りました」と語る。
その上で、こうも指摘する。
「ゴルバチョフ氏はソ連という国に対する理解が足りませんでした。共産党がすべてを支配する国ですから、共産党の力を弱めれば、経済が悪化することは自明の結果でした。それでも、ゴルバチョフ氏は自分の政治権力を維持するため、一度始めた改革をやめられませんでした」
ゴルバチョフ氏は1991年4月、日本を公式訪問し、海部俊樹首相と会談した。河東氏によれば、ソ連のペレストロイカを好機ととらえていち早く動いたのが西ドイツだった。
西ドイツは東ドイツとの関係改善に動き、1987年11月にはベルリンの壁が崩壊した。これに対し、河東氏は「日本は出遅れました」と語る。
「ロシアが欧州を重視していましたし、ゴルバチョフ氏がどこまで北方領土問題で譲歩するかわかりませんでした。外務省は当時、海部首相に責任をもって北方領土政策を進言できない状況でした」
河東氏によれば、当時の小沢一郎自民党幹事長らがソ連に対する1兆円規模の経済支援によって、北方領土問題を解決する案を推進していた。この案はゴルバチョフ氏にも伝わったが、同氏は首を縦にふらなかった。
「ゴルバチョフ氏は訪日当時、海部総理と10時間くらい会談したという記憶がありますが、らちが明きませんでした。ソ連の崩壊直前で、各共和国の声が強くなっていました。北方領土問題に手をつけたら、ソ連が大変なことになると、ゴルバチョフ氏は考えていたのでしょう」(河東氏)
12年ほど前、河東氏はイタリア・ベネチアでゴルバチョフ氏と会話をする機会があった。河東氏が「あなたの業績は素晴らしい。感銘を受けました」と語りかけると、ゴルバチョフは皮肉を込めた薄い笑い顔になり、こう語り返したという。
「そうなんです。でも、それで何が変わりましたか。何も変わりませんでしたよ」