シュテファン・フリッチェは、使っている天然ガスの請求書を見て目を丸くした。前年の2021年と比べて、400%も跳ね上がっていた。
ポーランド国境に近いドイツ東部ノイツェレで、伝統あるビール醸造所を営んでいる。電気代も300%上がった。
光熱費だけではない。穀物類などほかの出費も、かつてないほど膨らんでいる。みな、ウクライナ戦争が引き起こしたインフレだ。
ところが、その上を行く大問題がある。フリッチェの「クロースター(修道院)醸造所ノイツェレ」だけでなく、ドイツ全国の同業者が直面する脅威だ。
使えるビール瓶が足らない。にっちもさっちも行かないほどだ。
「これほどの不足は前例がない」とフリッチェは天を仰ぐ。「新たに確保しようにも、瓶の値段は爆発的に上がっている」
ただし、瓶そのものが足らないわけではない、というややこしい実情がある。ドイツ全国には約1500のビール醸造所があり、計40億本ものデポジット式のビール瓶が出回っている。子供も含め1人当たり48本という計算になる。
なのに、なぜ足らないのか。まず、このデポジット制度から説明しよう。
瓶ビールを買うと、瓶代として1本につき8セント(1セント=100分の1ユーロ)を払う。瓶が空いて店に持ってくれば、その8セントが戻ってくる。
環境に優しく、リサイクルが大好きなドイツ人気質にピッタリな制度だ。ところが、大きな落とし穴がある。空き瓶をきちんと返すという前提が崩れてしまうことだ。
空き瓶をいっぱい入れたケースを、一つ、二つと抱えて店に持っていくのは、なかなかやっかいだ。デポジット代が戻ってくるとしても、面倒臭さが先に立つ。
だから、空き瓶のケースが、自宅の地下室やアパートのベランダに積み上がることになる。そのうちに保管場所が満杯になるか、手持ちの現金が不足するようになるまで放っておかれる。
「小さな醸造所にとっては死活問題」とフリッチェは眉をひそめる。瓶ビールは自社製品の80%を占めている(飲料業界の廃棄物を減らすため、2003年にリサイクル法が改正された。国内市場で売られるのはほとんどが再利用可能な瓶ビールとなり、缶入りは事実上閉め出された)。
そこで業界団体「ドイツ醸造者連盟(DBB)」を率いるホルガー・アイヒェレは最近、テレビやラジオ、ソーシャルメディアで空き瓶を戻すよう訴えた。
もうすぐ夏本番。本格的な夏の暑さに加えて、裏庭でのバーベキューパーティーや祭りで売り上げが伸びる時期を前に、瓶が足らなくなる事態はどの醸造所も避けたかった。
深刻な瓶不足に拍車をかけたのが、ウクライナ戦争だ。新しい瓶で補おうとしても、入手は困難。価格も急騰した。
瓶の供給元は欧州のいくつかの国だが、その重要な一つがウクライナだった。しかし、こちらのガラス工場は操業停止に追い込まれた。加えて、ロシアとベラルーシからの調達ルートも制裁で機能しなくなった。
となると、チェコやフランス、あるいはドイツ国内などで入手するしかない。ところが、1本の価格は15~20セントというとんでもない高値になっている。ガラス加工はかなりの高熱を要し、光熱費を食うからだ。DBBによると、長期契約で確保できていない限り、新しい瓶の購入費は以前より80%も高くなった。
「ドイツからビール瓶がなくなる」。この国最大の発行部数を誇る大衆紙ビルトは、こうぶち上げた。衝撃は全独に広がり、パニック買いが起きないよう、アイヒェレは火消しに追われた。
「ビール製造そのものは、縮小せねばならないような状況にはない」とアイヒェレは強調する。「手短にいえば、供給量は十二分にある」
とはいえ、業界が幅広い問題を抱えているのも事実だ。輸送トラックの運転手は不足し、燃料代は高い。「醸造所や飲料業界の商売にとって、サプライチェーンの維持がますます難しくなっている」とアイヒェレも認める。
ラベルの紙などの原材料も値上がりしている。ビールケースを山積みしてフォークリフトで運ぶのに使う木製パレットの値段もしかり。こちらは、一つが17ユーロから約25ユーロに上がったと独最大手の醸造所の一つ、フェルティンスの広報担当ウルリヒ・ビーネは首を振る。「必要なものすべての価格が制御不能に陥っている」
このため、ビールへの価格転嫁となった。ドイツの酒屋やスーパーで最も一般的なのは、20本入りのケース販売。フェルティンスはその価格を1ユーロ上げ、19.5ユーロ弱にした。3年ぶりの値上げとなった。
独最大手の醸造所ラーデベルガー・グループ(ラーデベルガー、シェッファーホーファーなどのラベルで知られる)もこの春、100リットル当たりの価格を8.5ユーロ引き上げた。約6%の値上げに相当し、消費者にとっては1ケース分で32~63セント高くなった。
どうしたら、空き瓶を持ってきてもらえるか。冒頭のフリッチェは、デポジット払いの引き上げも考えてみた。15セントと一気に倍近くにすれば……。
しかし、そんなことでは解決できない、と大手の醸造所は主張する。自社用の空き瓶の数が膨大で、実施するにはかなり複雑な作業が必要になるというのだ。
フリッチェは、ビールの販売価格そのものについては今のところ据え置いている。しかし、年内にはドイツの多くの商品と同じように値上げに踏み切らざるをえないと見ている。最大で30%になるかもしれない。
ドイツのインフレは22年に入って5カ月連続で続いており、5月は前年比で8.7%もの上昇になった。記録的ともいえる重圧を受け、ドイツ人はすでに守りに入っている。飲食業の小売りの売上高は、4月は前月比で7.7%も落ち込んだ。1カ月間としては1994年以来の下げ幅だった。
そんな消費者に瓶代のつけまで回すのは適切ではない、と先のフェルティンスのビーネはいう。だから、ひたすら顧客に訴える作戦に打って出た。「空き瓶を戻して、地下室やベランダ、ガレージをきれいにしよう」「洗って、ビールを入れ、本来の流通ルートに乗せよう」
フェルティンスが持っているビール瓶は、20本入りのケースに換算して約100万個分もある。うち、自社の手元にあるのは3~4%にすぎない。
「もし、ガレージに置いたまま、顧客がいなくなってしまったら、うちにとっては大問題になりかねない」とビーネ。「空き瓶を入れたケースが一つでも戻ってくれば、その分だけ新しい瓶を買わずに済むようになる」
2020年で見た1人当たりのビールの消費量は、ドイツは世界で5番目になる(日本のキリンビール調べ)。ちなみに米国は17番目だ。
そのドイツでは、ビールの消費量そのものは長期低落傾向にある。国の統計局が(訳注=1990年のドイツ統一後に全独レベルで)記録するようになった93年から見ると、消費量は24%近くも減っている。
ドリンク類の多様化が原因とされる。しかも、この2年はコロナ禍がこの傾向に拍車をかけた。バーは閉まり、大きなはけ口だったスポーツや文化イベントが軒並み中止されたからだ。
こうした難しい環境では、経営者の腕がより問われるようになる。フリッチェの家族が、この醸造所を引き継いだのは1992年だった。以来、フリッチェは伝統と新しさの両方に依拠しながら自社を営んできた。
経営環境が厳しいほど、伝統の枠を超え、少しでも先を見通そうとする信念が必要になるとフリッチェは思う。
その一例が新製品の「黒い修道院長」だ。看板ラベルとして現教皇フランシスコの祝福を受けるまでになり、仕込み分のビールができ上がるたびにともに祝福を受けた瓶が浸される。
もう一つ、助けてくれることがある。1589年創業の歴史を、長い目で見ながら振り返ることだ。どういう試練に直面し、それをどう乗り越えたのか。
現代史を見ても、ナチスの時代があった。東独の共産主義体制が続き、その体制もドイツ統一で変わった。
「考えられるほとんどすべてのことが過去に起き、この醸造所はそれを乗り越えてきた」。フリッチェは、自らにいい聞かせるようにこう話す。
「だから、今回だってなんとかできる」(抄訳)
(Melissa Eddy)©2022 The New York Times
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