――映画の編集作業を始めたのは寂聴さんが亡くなってからだそうですね。
映画にしないかという話は2019年くらいからあったんですが、実質的に編集を始めたのは仕事が一段落した2022年3月初旬。映画を作るのは初めてで、まったくの手探りでした。
17年間で300時間分くらい撮っていたんですが、使える素材は限られていました。コロナ禍に入ってほとんど外出できなくなって、映像は(寂聴)先生と僕が寂庵のダイニングキッチンでしゃべっているのがほとんどだったので、そこから何ができるのかと本当に悩みました。
非常に個人的な記録ですし、客観性がまったくないでしょう。「これはドキュメンタリーじゃない」ってある人から言われましたが、間違っていないと思いました。だから、いまだにあれで良かったんだろうかと思うし、ずいぶん葛藤もありました。
――寂聴さんとの距離感が近くて、取材者としてうらやましいくらいでした。
ああいうやり方でしか撮影できなくなったところもあるんですよね。普通はカメラマンと録音の人を連れて3人くらいで行ってインタビューをするんですが、それだとどうしても第三者もいるし、答えられることが限られてくる。
そこで2010年ごろからは僕が1人で寂庵に行って、百科事典を積んだ上にカメラを置いて、お酒を飲み、人の悪口とかも言いながら、ときどき(寂聴さんが)ちょっと面白いこと言ったりする、というスタイルで撮ってきました。
その中にどういう「鉱脈」が埋まっているかは、後で見直さないと分からないんです。その時は僕もお酒が入っているし、先生と何をしゃべったのか全然覚えていなくて。寝落ちもしましたしね。ひどい話なんですが。
――映像を撮りためている間に、寂聴さんが2021年11月9日に99歳で亡くなります。
僕の中では、先生が100歳になる誕生日(2022年5月15日)の頃になんとなく形にできればいいな、くらいの感じでした。そうこうするうちに先生が亡くなって、その時点で、モチベーションを完全になくしました。「あーあ、先生も見てくれないんだったら、やっても仕方がない」と。
それでも最後のインタビューになった2021年6月8日の映像を見てみることにしたんです。そしたら、いきなり先生が僕を叱っていた。
「本当にやる気があるのか」「私は死んでしまうんだから平気よ。全部、仕事にしなさいよ」って。で、「私でお金もうけすることが嫌なのか」とか言うから「そうです」って言ったら、「そんなセンチメンタルなことを言っている場合じゃないでしょっ!」て。それを見た時に、「うわー、こんなやりとりをしてたのか」と思ったんですよね。
この時のやりとりは、まったく覚えていませんでした。これを見た時、うれしかったんですけど、「ああ、これはやるしかない」と思いました。あそこまで先生に言わせて、そのまま放置するわけにいかない。そこからやる気になりました。
――表舞台にあまり出なくなってから、「生き飽きた」と言ったかと思えば執着したり、また解き放たれてみたり。寂聴さんが見せた「揺らぎ」の記録は貴重です。
撮っている時は気づかなかったんですが、たとえば、リハビリが終わって立ち上がろうとして立てなくなったりするんです。要するに、昨日まで普通にできていたことが、今日できなくなることに直面しているということですよね。
今考えると、先生はそういう時もずっと笑っていたんですよ。やっぱり超人だなと思いました。僕なら落ち込むけれど、それを笑うことでやり過ごすというか、不思議と暗くならない。先生との17年間は、びっくりの連続でしたね。
――肉をたくさん食べ、酒をたしなみ、キラキラした洋服も身に着けています。「僧侶の寂聴さん」というパブリックイメージを覆す映像もたくさんありました。
すき焼きとステーキを同時に食べているシーンがあるんですが、それを(別のドキュメンタリー番組内で)放映したとき、「普段はあんなことはしていない。あなた(中村さん)が来るって言うからわざわざ用意した」と怒られました。ただ、僕がいないときに野菜サラダばっかり食べているかといったら絶対そんなことないですからね(笑)。
私服はあまり撮られたがらない人でしたが、僕が(寂庵に)行ったときはしょうがないじゃないですか。編集者とかいろんな人からのもらい物もある。結構、変なシャツとかいっぱい持っていましたよ。
――作品中には、中村さんの関わる番組にリモート出演したものの、うまく受け答えできなかった寂聴さんが「私、ボケてた」と号泣するシーンもあります。
ああいう姿を見せたのは、あれが初めてでした。僕が撮っていて涙を流したことはそれまでも何回かあったんです。前夫のお墓参りの時も涙を流されましたが、あんなふうに泣くのって、普通ないと思うんです。特にご高齢の人が、4歳か5歳の子が泣くみたいに泣くわけですから、ちょっとびっくりしましたけれど、正直に言うと、結構、面白がっていました。原因を作ったのは(番組に招いた)僕なので、本当に申し訳ないなと思いながら。
――中村さんから見て、寂聴さんにはどんな魅力がありましたか。
先生が泣いている時に感じたことですが、感性が若々しくて、みずみずしいところですね。精神的に若くて、偉そうにしない人でした。
――印象に残るシーンや、寂聴さんの言葉を教えてください。
いっぱいあるんですが、「人生の岐路に立った時、『こっちに行ったら怖いぞ』って方に行った方がいい」という言葉です。危ない目に遭った方が人生は面白いよということですよね、きっと。それは僕も身をもってそう思いますし、勇気を持ってチャレンジしなさいということだと思うんです。同じことはしょっちゅう言っていました。
あとは「恋愛からは逃れられない。雷のように落ちてくるものだから打たれるしかない」という言葉です。あんまり実践しない方がいいと思うんですが(笑)、そうだよな、と思います。この人を好きになってはいけないと理屈は分かっていても、気がついたら好きだったりすることもありますよね。
僕が先生に恋愛相談をすることはあまりなかったですが、いろいろ心配して言ってくるんですよ。「あの人とはどうなったの」とか「あの人はやめといた方がいい」とか。もう大きなお世話だと思いながら聞いていました(笑)。
コロナ禍で電話でしか話せなくなった頃、先生が「彼女をつくりなさいよ。誰でもいいから」なんて言ったんで、「それはお坊さんが言うことじゃないでしょう」と言ったら、「いや、今のは小説家が言ってるんです」って。そういうところが若いですよね。年が近い友人みたいでした。
――友人でもあり、母や姉のようでもあり、クリエーター同士でもある。「奇妙な関係」だったわけですね。
家族ぐるみの付き合いがありました。エンドロールには孫を寂庵に連れて行った時の映像を使っています。僕の娘なんか、僕の知らないところで先生と話していて、先生の小説の題材になったこともあるんです。ずいぶんネタを提供しているんですよ、こう見えても。
亡くなる年の6月、朝日新聞に持っていた連載エッセー「寂聴 残された日々」の締め切り前夜、僕と30秒くらいやりとりがあったんです。映像を見返すと「(京都の)清滝のホタル、見に行ったわよね」と言うから「行きましたねー」って僕は適当に答えているだけなんですが、その時のことを記憶の引き出しから出して、1時間半くらいでばーっと書くわけです。
そこには僕らしき人も出てくる。それを読んで、先生がすごい境地にいっちゃったんだなと感じました。現実も虚構も時間も空間も、全部飛び越えたような先生のイメージがすごく豊かに飛び交っている感じがしました。
僕は僕で先生とのすべてを映像に撮っているし、先生は先生で、もてなして優しくしてくれているだけはなくて、そこでちゃんと仕事としても元をとっているところがあったと思います。
――老いについて寂聴さんはたくさん書き残しましたが、映像の中では若々しいです。
そうなんですよね。しんどい、しんどいと言いながら、全然死にそうじゃない。本当に弱っていそうな時もあるですが、翌週には元気になっていました。あの復元力、再生力は先生の超人的なところだったと思うし、その力の源になっていたのは、それこそ肉を食べるとか、自由に生きるということだったと思うんです。
でも自由には責任が伴うし、時として罪作りなことをやってしまうこともある。だから先生は「自由」ということを、人生を通して一番考えられた人なんじゃないかなと思います。いろんな時代を生きてきて、闘ったものもたくさんあったと思います。
――寂聴さんとの親交は、中村さんの生き方にも影響を及ぼしましたか。
薫陶を受けました。先生から一番教わったことは「人を思う」ということだと思います。自分って、誰かと一緒にいることで存在しているわけですから。その人にとっての自分がどういう人間かで自分の価値が決まり、意味ができてくると思います。
最期の1年くらいは(コロナ禍で)法話もできなくなって、先生も調子が狂ったと思うんです。人前に立って、人の悩みや苦しみを吸い取って、それを自分のプラスのエネルギーにするようなところがあった人ですから。その機会がなくなってしまい、少しかわいそうでした。
ものを書くことだけに集中できてよかったという見方もあるけれど、やっぱり先生の中では大勢の人の前に立って、そこで力をもらうということもあったと思います。
それでいて、やっぱり孤独であることも大事にしていました。どんなに人とわいわいやっていても、みんなが寝静まると起き出して、一人で書いていました。それが先生にとっては非常に大事で、至福の時間だったような気がするんです。
秘書の女性たちとの丁々発止も楽しかったと思うけれど、その後は一人になって、とにかく書く。そこには他人が開けられない扉みたいなのがあって、その両方があったから長く仕事もできたし、生きられたのかなというふうに思いますね。
――亡くなって半年がたちました。
まだ全然実感が湧かないんですよ。ロシアのウクライナの侵攻についてとか、生きていたら先生はどういう行動を起こしただろうとか、考えます。肉体はなくなったけれど、「あの人だったらどうしただろう」と考える限り、その人はたぶんいなくなってはいないんだと思います。
先生が基本にしていた「人を思う」ということは、つまり社会を思うことでもあります。今、僕がやっている仕事の原点でもある。先生が残した言葉や映像はまだ僕の手元にあるので、どういう形でそれを世の中の人に届けるかは、僕にとって、これからの課題なんだと思います。
作品公式ページはこちら