私が取材を続けていたナゴルノ・カラバフの「首都」ステパナケルトから脱出する11月6日午前、攻撃を知らせるサイレンが、断続的に市内に響いた。その都度出発は延期され、実際に街を出たのは正午過ぎだった。
ナゴルノ・カラバフとアルメニアとの間には、標高3千メートルを超える険しい山脈が立ちはだかる。山並みを超える道路は2本しかない。
1本は、私が来る時に使った道路で、アルメニア東部ゴリスから「ラチン回廊」を経てナゴルノ・カラバフ南部に入る。物資輸送の大動脈で、アルメニア側はここを死守する態勢を敷き、カーブごとに兵士が警備をする物々しさだった。しかし、この道は沿道の戦闘激化で閉鎖されている。
もう一つは、北部を大きく回り道してアルメニア北部に抜ける道路だ。攻撃の危険性から国境付近がやはり閉鎖されているものの、3年前に開削された林道を通ると何とか抜けられるという。ここをたどる以外、選択肢はない。
ステパナケルトを出て北に向かい、しばらくは農村地帯を走る。山また山だった往路に比べ、随分のどかな風景だ。もっとも、時折砲撃音は聞こえるし、UAV(無人航空機)の標的ともなり得るので、安心はできない。
いくつかの峠を越えると、道路はタルタル渓谷に入った。カスピ海に流れ込むタルタル川の上流で、岩がせり出す風光明媚な場所だ。その奥に位置するダディバンク修道院で、途中の休憩を取る。9~13世紀に建造されたといわれるこの地域の代表的な文化財で、素晴らしい眺望と13世紀のフレスコ画で知られる。アルメニア軍が駐留しており、警備の兵士たちが私のカメラを見て「写真を撮ってくれ」と近寄ってきた。
その先、道路は途中から未舗装になったものの特にトラブルもなく、アルメニア領の手前の村カルバジャルに夕方着いた。人影がなく、朽ちた家が多い。廃村と見間違うような集落。元々はアゼルバイジャン人の村だったが、1990年代の紛争で住民は逃げだし、代わりにアゼルバイジャンから逃げてきたアルメニア人が住み着いたという。
ここからは、標高3000メートル近くまで未舗装の林道を駆け上がる。急坂を登るに連れて、道路は尾根に出た。大パノラマだが、アゼルバイジャン側からの格好の標的だという。運転のハンドルさばきはますます荒く、ロケット弾に当たるよりも崖から落ちる方を心配した。実際、事故を起こして斜面を滑り落ちかけて止まっている車を、途中で見かけた。
登り切ると風景が一変し、のどかな農村が広がった。アルメニア側に入ったのだ。緊張が一気に解けた。 結果的に、この日脱出しておいて正解だった。翌日以降、アルメニア軍は敗色濃厚となり、ナゴルノ・カラバフから難民が一斉に流出したからだ。林道は大渋滞になり、進もうにも進めない。その様子が、テレビの映像でアルメニア側に伝えられてきた。
アルメニアの首都エレバンに戻った後、難民の受け入れ窓口を取材した。
中心部の教育文化センターを利用した施設に、車に乗り合わせた人々が次々と到着する。1日100人あまりで、村の住民全員が来る場合もあるという。男性は戦場に出ていることから、来るのは女性と子どもばかり。大人がいないため、12歳の少年が車を運転してきた家庭もあったという。
大広間にはベッドが並び、宿泊に備える。ただ、ここで難民が過ごすのは1泊程度。当局はその間に、恒久的な滞在先を仲介する。新型コロナウイルスの影響で宿泊客のいないホテルがしばしば利用される。難民たちは、故郷に近い地方に行きたがるという。
11月7日に訪れた窓口では、到着したばかりの3家族が体を休めていた。ステパナケルト近郊の古都シュシャ近くの村から逃れたという。17人のうち、大人の女性4人以外は全員子ども。「ここに来ると安全だけど、自宅を離れて不安が大きい」と、大人のうちの1人アナヒット(36)は話した。
同じグループの女性マリアム(20)は、脱出した後、トルコ系のテレビニュースに自宅が映っているのを見たという。ただ、その家は無残にも破壊されていた。「出てきたときは普通に立っていたのに」と嘆いた。
このグループとは別に、ステパナケルトで中学教師をしていたグレタ・イサイヤン(22)は生後5カ月の長男を抱いて、この日到着した義母らを迎えに来ていた。自身は紛争初期の9月30日に脱出し、知人宅に滞在している。「大変つらい経験でした」。夫は兵士として前線に出ているという。
窓口に詰める医師バルジャン・マズマニャン(54)は「特に子どもに心理的な影響が大きいと心配しています」。ショックで口を利かなくなった子もいるという。
施設には、子どもたちのお絵描き教室の一角があった。ボランティアが面倒を見るというが、その絵には戦争の場面が少なくない。7歳ほどの子の絵は、戦車と銃と「私たちは勝利する」の標語。そのような記憶を抱えて、今後どんな人生を歩むのだろうか。
アルメニアを去る11月10日、朝起きると状況が一変していた。
シュシャが陥落し、仲介役のロシアが示した停戦案をアルメニアが受け入れたのだ。事実上の敗戦。アルメニアは実効支配地域の相当部分を失い、ナゴルノ・カラバフにはロシア軍の平和維持部隊が駐留することになった。停戦に反対する市民らはこの日、政府庁舎前に集まって抗議の声を上げた。
急転直下の戦争終結だが、それほど、アルメニアは追い詰められたのだろう。アルメニアの民主化運動の指導者で、2018年に「無血革命」を通じて政権を握った首相ニコル・パシニャン(45)は、親欧米の穏健な政策で知られたが、被害の拡大に耐えられなかったのかも知れない。
攻撃がやんだことから、アルメニア領内に滞在していた4万人が難民生活を打ち切り、ナゴルノ・カラバフの自宅に戻るという。一方で、アゼルバイジャンの支配下に入る村々では、住民が家財道具を急いでまとめ、行く当てもなくアルメニア側に逃れた。その一つ、私が立ち寄ったカルバジャル村でも住民たちが退去を迫られ、去り際に自宅に火を放つ映像が流れてきた。
紛争の人道被害を伝える活動に取り組むエレバンのNGO「ニュー・アルメニア」代表エリヤ・マナンディヤン(45)は「(「ラチン回廊」を失うことによって)アルメニアから切り離されることになるナゴルノ・カラバフでは、新たな虐殺が起きるのでは、と人々が心配しています。アゼルバイジャンが支配する地域にある文化財の行方にも、懸念を抱いています」と語った。
表面上は戦争が終わり、平和が訪れた。しかし、人々の苦悩は果たして和らぐか。ナゴルノ・カラバフにはロシア部隊が新たに進駐し、トルコも虎視眈々とかかわりを狙う。
地域大国が野心もあらわに、策略を巡らせる世界。それは、安定にはほど遠く、むしろ新たな混乱の始まりのように思えた。