■作られた対立構図
ナゴルノ・カラバフは、はたから見ると比較的平凡な土地だ。山ばかりで資源に乏しく、農業以外に大した産業も見当たらない。人口は15万人足らず。
にもかかわらず、アゼルバイジャンとアルメニアは、この土地の支配を巡って血みどろの争いを繰り広げる。前者はイスラム教徒、後者はキリスト教徒だが、「宗教的な対立はほとんどない」と、ステパナケルトで面会した地域最高位のアルメニア使徒教会大主教パルゲフ・マルティロシヤン(66)は語った。
「他のイスラム諸国では今でも、アルメニア人のコミュニティーが何も問題なく存在している。ここでも昔は、みんな一緒に暮らしていたのですが」
紛争の経緯を包括的に描いたと評価される英ジャーナリストのトーマス・デワール著「黒い庭」(未邦訳)などによると、ソ連時代、アルメニア人とアゼルバイジャン人は、何度か衝突やトラブルを抱えながらも、基本的には共存してきたという。アルメニア人は印欧系言語、アゼルバイジャン人はトルコ系の言語を話すが、文化や習慣に共通するものは多い。双方の国内には互いのコミュニティーが散在し、人も物資も行き来していた。
しかし、ソ連末期の1988年ごろから対立が深刻化し、双方で虐殺が相次いだ。デワールによると、両者の間に古くから反目が存在するわけではなく、さほどの経済的社会的な事情があったとも言いがたい。むしろ、白か黒かをはっきりさせがちなソ連特有の政治的レトリックが作用し、互いのナショナリズムが増幅され、相手に対する疑念が高まったためだと考えられるという。背景には、ソ連末期の不安の高まりもあった。
その結果、アルメニア人はアルメニアに、アゼルバイジャン人はアゼルバイジャンに避難した。互いの少数派コミュニティーはほぼ消滅した。
人口の約8割をアルメニア人が占めていたナゴルノ・カラバフからも、少数派アゼルバイジャン人が他の地域に逃れた。こうして空き家となった住居の多くに入ったのが、アゼルバイジャンから避難してきたアルメニア人だった。その結果、ナゴルノ・カラバフの住人はほぼ全員がアルメニア人となったという。
それから30年近くが経過し、アルメニア人は今、この地域を先祖代々の土地と見なす。そこに暮らしていたアゼルバイジャン人は、避難先でいつの日か帰還することを願い続けた。
両者は今、平行して交わることのないそれぞれの歴史を生きている。双方が「こここそは我らの土地」と信じるナラティブ(語り口)をつくり上げ、それに固執しているように見える。
■パワーゲームの舞台と化して
ナゴルノ・カラバフ紛争は1990年代、欧米とロシアとが衝突する火種になりかねないと懸念された。アルメニアがロシアと連携する一方、北大西洋条約機構(NATO)加盟国のトルコが、言語や宗教で共通するアゼルバイジャンと緊密だったからだ。
しかし、トルコと欧米との関係が冷え込んだ現在、構図は異なる。トルコのエルドアン政権は強権化、イスラム回帰の政策を進め、周辺への勢力拡大の意図もあらわにする。トルコの欧州連合(EU)加盟の可能性が薄らいだことも、こうした姿勢を後押しした。その結果、この地域はむしろロシア、トルコ、イランといった地域大国が影響力を競うパワーゲームの舞台となった。
今回の紛争は、紛争の力関係を大きく変えた。士気に勝ってこれまで優勢だったアルメニアに対し、産油国として資金力に勝るアゼルバイジャンは、トルコの支援を受けて最新兵器を配備し、一気に失地回復に出た。ステパナケルトが連日の攻撃にさらされたのも、その表れだ。
「ただ、今回の紛争を決定づけたのは住民への攻撃でなく、軍事目標への精密攻撃能力を向上させたアゼルバイジャン側の準備だった」と、旧ソ連の紛争を専門とする英王立防衛安全保障研究所(RUSI)の主任研究員ジャック・ワトリング(27)は指摘する。
アゼルバイジャンは今回、トルコ製UAV(無人航空機)の「バイラクタルTB2」など最新兵器を配備することで、防空システムをくぐって敵国内部に何十キロも侵入して標的をたたく手段を得た。アルメニア軍の装備は、前線に送り出される前に次々と破壊された。それは、最前線で互角に戦っていたアルメニア軍を敗走させることにつながったという。
背景には、トルコの密接な支援があったと、ワトリングは考える。
「『バイラクタルTB2』が引き渡されたのは2020年の夏だったにもかかわらず、アゼルバイジャンはこの紛争で完璧に使いこなしました。それまで全く使ったことがなかったのに、急にその機能を理解できるとは考えにくい。トルコの極めて緊密な関与があったと考えるのが当然です。トルコの武官がアゼルバイジャン人に使い方を指導したのは、まず間違いありません」
逆に見ると、開戦は9月末だったにもかかわらず、夏にはすでに、アゼルバイジャンは戦争を用意していたのだろうか。
「その通りです。いつ始めるか正確に決めていたかどうかはともかく、極めて長期的な計画に基づいた戦争だったはずです。加えて、9月は戦争の条件が整っていた。米国は大統領選で頭がいっぱいだし、ロシアも介入しそうになかった」
アルメニアはその準備に気づかないでいた。
「今回アゼルバイジャンが使った兵器の一部は、2016年に起きた小紛争の際にも使われていました。にもかかわらず、アルメニアは何も学ばなかった。アルメニア軍は基本的に強力で、この時も持ちこたえただけに、(戦争形態の)変化を読み取れなかったのです」
「精密攻撃の開発の歴史は40年に及びますが、これまでそれは、大国だけが持ち得た能力でした。今回のナゴルノ・カラバフ紛争が示したのは、アゼルバイジャンのような年間軍事費が20億ドル(約2000億円)レベルの(中規模)国家でも、これを備えられるようになったことです。これは、10年前には考えられなかった事態です。UAVの低価格化が実現したからに他なりません」
ナゴルノ・カラバフで起きた事態は、日本からは遠く思える。
「でも、中国はアゼルバイジャンをはるかに上回るUAV能力を持っています。これは、ミサイルでは防げない。日本は、侵入を防ぐ対策が急務でしょう」
1カ月半の紛争中、ナゴルノ・カラバフに入った記者は、私を含め約390人になる。フランスのルモンド紙の記者2人が重傷を負って緊急搬送されたのを含め、記者7人が負傷、地元同行者1人は死亡するなど、過酷な取材現場だった。
アルメニア領内とステパナケルトとを結ぶ主要道路は、私が入った翌日の11月3日、沿道近くに位置する古都シュシャでの戦闘激化によって閉鎖された。5日、国際NGO「国境なき記者団」は「記者80人がナゴルノ・カラバフで孤立。命がけの退避が必要で、国連に支援を要請」と伝えた。この日実際に、現地の記者の数が急減した。アゼルバイジャン軍が迫り、緊迫の度合いが高まって退散したのだ。
うかうかしていると自分も帰れなくなる。翌6日、来た道とは異なる山岳ルートをたどって、アルメニア領内への脱出を私も試みることにした。(つづく)