街角に人影はない。店舗の多くも扉を閉ざし、ゴーストタウン状態だ。
男たちは戦場に赴き、家族の多くも避難して、約5万人の人口の7割近くがすでに、街を去っていた。残留した市民も、アゼルバイジャン側からのロケット弾攻撃を恐れて、外出しようとはしない。
日が暮れても街灯はともらず、窓の光も漏れない。標的となるのを避けるため、車もライトを消して走る。真っ暗な街に、数分おきに砲撃音が響く。
翌3日朝、砲撃の頻度はさらに高まり、まるで花火大会のようになった。隣町シュシャ(シュシ)で激しい戦闘が続くからだ。10キロほど離れているとはいえ、気が気ではない。
緊張の中、取材に出た。
2日前の11月1日に攻撃を受けたマーケット(青空市場)を訪ねる。露店の真ん中にロケット弾が落ち、けが人が出た。
建物が崩れ、商品が散らかっている。がれきの中には、ロケット弾の一部らしき金属片が混じる。多くの店は閉じたままだが、その中で営業を続ける精肉店の店主ボリス・ネルシェシアン(64)は「朝7時過ぎ、店を開けようと市場の中に入ったとたん、爆発した」と、当時の様子を話した。
市場の周辺では、被害が3日続いていた。周囲に広がるのは庶民的な住宅街で、軍事施設など何もない。なぜこの地域が標的になるのだろうと、人々は疑問に思っていたという。
ネルシェシアンは、その一因が自分にあるのでは、と心配していた。10月30日、近くの住宅街に最初のロケット弾が落ち、民家3件が崩壊した。住民は避難して無事だったが、訪ねてきたテレビの取材に応えてその時の模様を語ったのが、ネルシェシアンだったという。「余計なことをしゃべったから、その映像を見たアゼルバイジャン軍が、報復として市場を狙ったのではないだろうか」
その翌日もまた攻撃があり、しかし着弾した爆発物は不発だった。しかし、3日目に市場そのものが被害を受けた。
「偶然とは思えない」
青空市場の近く、街の中心部にある産婦人科病院は、10月28日に攻撃を受けて大破し、建物が大きく崩れかけていた。それでも数人のけがにとどまったのは、万一に備えて病院機能そのものを地下室に移行していたからだという。
地下の臨時診療室をのぞくと、27週目という妊婦が1人ベッドに横たわり、医師の診察を受けている。その医師、院長のバディク・オシポフ(49)が振り返る。
「まるで建物全体が崩壊したかと思う振動でした。水道が破裂して、地下が水浸しになった」
地下室でもガラスが割れ、ベッドの上に降りかかったが、幸いそこにだれもおらず、大事には至らなかったという。
病院の上階ではがれきの片付けが続いていた。ただ、新たな攻撃の心配もあり、作業はなかなか進まないという。
オシポフは、別れ際に言った。
「かつて研修で札幌を訪問して、日本を大好きになりました。来てくれてありがとう」
今回の紛争では、アゼルバイジャンとアルメニアともに軍事目標に限らず、民間の施設や住居をしばしば攻撃し、双方で被害が広がった。アゼルバイジャン第2の都市ギャンジャでは、アルメニア側からと見られる弾道ミサイル攻撃が10月4~17日に4回あり、20人を超える死者が出たと伝えられている。
一方、アゼルバイジャン側も、ロケット弾やUAV(無人航空機)でステパナケルトを集中して攻撃していた。そのせいだろう。街では、あちこちの建物のガラスが割れ、壁も崩れている。
学校も被弾した。市東部のステパナケルト第5小中学校である。
学校事務長のバニック・ガザリヤン(61)によると、4日午後7時ごろにまず、爆弾が近くの公園に着弾した。校舎内の地下壕に避難すると、間もなく校舎の前庭で爆発が起きたという。
窓ガラスは粉々になり、壁にも穴が開いている。教科書や教材も灰をかぶった。学校は開戦以降閉鎖されており、子どもたちも疎開していたが、もし残っていたら大惨事になっていただろう。
ガザリヤンはアゼルバイジャン領内のほかの地域で生まれたアルメニア系で、ソ連末期の民族対立の中で避難民となってこの街に来た。「そのとき、子どもをこの学校に通わせた。今は孫がここに通っているんだ」。事務長を務めて20年になる。「平和がほしいね」とつぶやいた。
ガザリヤンに案内してもらい、校内で被害の写真を撮っていると、突然サイレンがうなりを上げた。慌てて、一緒に地下室に逃げ込む。ステパナケルトでは、1日に何度か警戒警報が発令される。多くの場合、その数十秒後に攻撃が到来する。
この時は結局攻撃がなく、サイレンはしばらくするとやんだが、街のどこかで被害は毎日のように出ている。
この街に入った翌日の3日夜、市内でインタビューを終えて暗闇の中をホテルに向かって歩いていると、突然、空が真っ赤になった。間髪を入れず大音響がとどろき、その後もしばらく爆発が連続した。近くに着弾したのだ。
後日、その場所に行ってみた。(つづく)