ロシア出身のオレグ・ニキティンさんは、2013年当時、イギリスで人工知能(AI)の研究をしている博士課程の学生でした。彼の運命が変わったのは、その年に沖縄科学技術大学院大学(OIST)で開催された国際ワークショップに参加した時です。分野間に壁のないOISTの研究環境に圧倒されました。また、彼の専門である脳科学分野の厚い研究者層に感銘を受け、「ここで働きたい」と強く思うようになりました。
そこで色々と可能性を探る中で知ったのが、OISTのスタートアップ・アクセラレーター・プログラムの存在です。彼はこのプログラムに応募するために自分の研究プロジェクトで事業化を目指すこととし、大学の仲間であるもう一人のAI研究者と、一人の数学者をチームメンバーとして加え、脳科学とAIを掛け合わせた、次世代型チャットボット(会話型AI)の開発用プラットフォーム「Kanju-bot」の開発を目指すプロジェクトでプログラムに応募しました。見事採用され、11月からOIST職員として事業開始に向けた活動を開始する予定です。
今回のコラムでは、オレグが見つけた「OISTスタートアップ・アクセラレーター・プログラム」について、ご紹介したいと思います。
世界の科学技術の発展に寄与することを通じて、沖縄の自立的発展に貢献する、というミッションを掲げて2011年に創設された沖縄科学技術大学院大学(OIST)。OISTスタートアップ・アクセラレーター・プログラムは、OISTの存在意義に関わるこのミッションを達成するための一助として始まった取り組みです。
OISTがある沖縄本島北部の恩納村は、サンゴ礁の海と豊かなやんばるの森の恵みを享受する美しい場所です。この立地を活かして、リゾートホテルやレストラン、ダイビングショップなどが軒を連ね、また、モズクや海ぶどうを中心とする養殖や漁業、そしてマンゴーなどの果物やゴーヤーなどの野菜を栽培する農業も盛んに行われています。
ここに、ハイテク産業を加えることで産業構造に奥行きを持たせ、より活発で安定した経済を作り上げようという取り組みがOISTを中心に行われています。
ごく簡単に言えば、この取り組みには二つの要素があると考えています。まずひとつ目は、OISTの研究室から、産業界で使える科学的発見や技術がどんどん生み出されること。そして二つ目は、OISTのような国際的で最先端の研究所の存在を魅力として集まってくる企業や起業家を世界中から引き寄せること。そうすることで、雇用や税収、そしてビジネスがビジネスを生むといったエコシステムを期待することができます。このようなイノベーションによって地域経済に持続的に利益や人材を還元していけるイノベーションエコシステムを確立することが、設立9年目のOISTにとって、最重点課題のひとつです。
この課題への取り組みのひとつとして、2018年から開始したのが「OISTスタートアップ・アクセラレーター・プログラム」です。学内のソフトとハードの資源を活用しながら、沖縄で研究開発を行うスタートアップを引き寄せ、育てていくことを目的としています。実施にあたっては、現在世界中に数千もあると言われているアクセラレーター・プログラムの成功事例を参考にしました。
このプログラムでは、まず科学・テクノロジー分野において革新的なアイデアを持った起業家を募集し、その中から、これは、と思ったプロジェクトを採用します。起業家は、1年間はOIST職員として採用され、生活面で安定を得、その間に沖縄でのベンチャー設立を目指します。OISTはこの起業家に対し、初期の運転資金、施設内スペースや共有機器等へのアクセス、国内外のビジネスエキスパートによるアドバイスやネットワーク、研究助言や共同研究へのマッチングなど各種サポートを提供します。
優れたアイデアと気概を持つ国内外からの傑出した起業家が、沖縄に移転してスタートアップしてみようと思わせるためには、市場としての魅力も必要ではありますが、それを補って余りある側面サポートやインセンティブが必要です。
実際にこのプログラムで採用された起業家にインタビューをして、プログラムについてどう思っているかを聞きました。
冒頭で紹介したオレグのKanju-botチームは、本来であれば4月から3人で沖縄に移住し、起業に向けて準備を加速する予定でしたが、新型コロナウイルスの影響でビザの取得が不可能なため、今はロシアで準備を行っています。OISTで起業を目指すことの魅力は、「ユニークなコンビネーションを提供してくれること」だとオレグは言います。OISTの銅谷賢治教授、ジェフ・ウィッケンス教授、エリック・デ・シュッター教授などの世界的にも著名な神経科学者と実際に交流し、一緒に働くことができるかもしれない可能性、スパコン施設、そして、英語を共通語とする環境、沖縄の美しい自然環境といったもののコンビネーションを魅力に感じているそうです。
現在まだOISTの職員として働くことが叶わない中、オレグとチームメンバーは、オンラインで行われるOIST独自の起業家講座を受けつつ、さらにアクセラレーター・プログラムの運営チームと定期的に打ち合わせを行い、「精神的なサポートやアイデアをもらっている」そうです。
ナラヤン・ガルジャールさんは、地元インドのラジャスタン州における深刻な干ばつに心を痛め、高校生の頃から水不足に対処する製品の開発を目指してきました。常に開発のことで頭がいっぱいのナラヤンは、地元の友人らと「EF Polymer」を立ち上げ、環境に優しく、地中で大量の水分を保持してゆっくり放出するポリマーを開発し、インド国内の技術コンテストで注目を浴びました。その後ヨーロッパでもグリーンテクノロジーとして何度か賞を受賞しましたが、そうした賞で与えられた一過性の短期間の起業プログラムではなく、安定した長期の支援を探していました。
インドのコンサルタントを通じて紹介されたOISTスタートアップ・アクセラレーター・プログラムへ応募を決めたのは、1年間OISTの職員として雇用されることで安定した状態でプロジェクトに打ち込める環境があったことです。1年間の支援を受けて、OISTが提供した自治体や研究所、企業等とのネットワークを最大限に生かして開発を行うことができていると言います。日本語が一言もわからない状態でやってきた彼らが、この沖縄で地元機関と連携を築きながら起業を目指す中で、プログラム運営チームの力強いサポートがあったとのこと。「どこに行くにも一緒に同行してもらった」というOIST事業開発セクションの日本人スタッフや、沖縄の地元住民から親身な支援を受けたという思い出もいくつか話してくれました。今年プログラムを卒業したEF Polymerは、今後インドに生産・販売拠点を構築しつつ、引き続き沖縄で研究開発を進め、沖縄に特化した農業用肥料の開発にも取り組んでいます。
2020年度のプログラムで採択されたもう一つのチームがカナダのモントリオール出身のキャシャヤー・ミサギャン博士を中心とするチーム。
モントリオールは、世界をリードするAI研究の中心として注目されている都市です。そんなモントリオールから、しかもAI分野でのテクノロジーを引っ提げてOISTスタートアップ・アクセラレーター・プログラムに応募したキャシャヤーは、視覚科学で博士号を持ち、生物医学と電気工学のバックグラウンドを持っています。チームメンバーには心理物理学博士、物理学博士を抱え、人間の脳からヒントを得た、高齢者の転倒予防のためのソフトウェア開発を目指しています。なぜ、地元モントリオールでなく沖縄に来る必要があるのでしょうか。そんな疑問に対してキャシャヤーは、こう説明してくれました。「AI研究にもトレンドがあって、モントリオールでは今のAIの主流となっている自動運転や画像認識、自然言語処理などがメインとなっていて、僕たちが目指している神経メカニズムに基づくAI研究というのはちょっと方向性が違う。だから、ここではない違う環境で開発・テストできる場所を探していたんだ」
「それに日本は高齢化社会で知られていて、高齢者施設も多い。日本のマーケットとしての可能性にも魅力を感じている」とキャシャヤーは続けます。OISTのアクセラレーター・プログラムを選んだ理由については、「住居や仕事場を用意してくれるところから、実際にプロジェクトの実行まで親身になってサポートしてくれるプログラムは他にはない」。カナダやアメリカ西海岸におけるスタートアッププログラムと比較して、OISTのプログラムはとにかく「柔軟性がある(flexible)」と熱弁してくれました。彼もコロナ禍により沖縄へ来ることがまだ叶いませんが、すでにOISTメンバーは、実証のために高齢者施設との連携を探るなど、「実施・実行」に向けた具体的なサポートを提供してくれることに満足している様子です。
魅力的な若い起業家を世界中から引き寄せているOISTスタートアップ・アクセラレーター・プログラム。まだ数は少ないものの、このプログラムがどんどん成長し、沖縄からユニコーン企業が生まれるのも、そう遠くない未来でしょうか。今後の彼らの成長に期待が高まります。
(OIST メディア連携セクション 大久保知美)