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「一緒に泥舟を漕ごう」金丸訪朝から30年 対北朝鮮外交の活路はどこに

揺れる世界 日本の針路 更新日: 公開日:
1990年9月26日、北朝鮮・妙香山の招待所で握手する金丸信元副総理(左)、金日成・北朝鮮主席(中央)、田辺誠社会党副委員長=同行記者団撮影

インタビューシリーズ「金丸訪朝30年 日朝外交これまで、これから」

  1. 金丸信吾氏(金丸信・元副総理次男)
  2. 田中均氏(元外務審議官)
  3. 石破茂氏(衆院議員)
  4. 佐々江賢一郎氏(元駐米大使)
  5. ジェームズ・ケリー氏(元米国務次官補)=10月1日配信予定

1990年9月28日、訪朝した金丸元副総理と社会党の田辺誠委員長が、朝鮮労働党との間で、日朝国交正常化に向けた政府間交渉を促す3党共同宣言に署名した。当時、「日朝の扉を開けた」「土下座外交」など、訪朝への賛否は大きく分かれ、宣言中の「十分な償い」という表現が大きな反発も招いた。

――金丸訪朝では何が起きていたのですか。

平壌到着2日後(9月25日)の夜、突然、行き先も告げられず、列車で北に160キロ離れた妙香山に連れて行かれた。翌日(26日)の午前、金日成(キム・イルソン)主席と田辺委員長、父(金丸元副総理)の3人で会談したが、社交的な話に終始した。

午後に平壌に戻るはずだった。他の人たちが列車で出発の準備を整えた後、父は宿舎を出発するはずだった。北朝鮮側が「主席が金丸先生とだけ話をしたいと申していますが、お受けいただけますか」と言ってきた。

父は「抜け駆けできない。田辺の了承を取って欲しい」と答えたが、他の人たちは既に平壌に出発したという。父は「そこまでして、俺と2人きりの話をしたいという申し出なら、断るのは政治家としていかがなものか。田辺には後で謝る」と言って受けた。

昼前から、主席と父だけの会談が始まった。陪席者は当時の日本担当者の黄哲(ファン・チョル)氏だけだった。私は警護、秘書ら4人と一緒に招待所で待っていた。

――2人の会談で密約があったという人もいます。

会談は昼食を挟んで夕刻まで続き、国交正常化のための政府間交渉を始めることで合意した。ただ、決めたのはそれだけで、後に北朝鮮への戦後賠償の表明だとして問題視された「戦後45年間の謝罪、十分な償い」という表現も含め、3党共同宣言の文案についての協議は行われなかった。

父から聞いた話では、会談では主に、金日成が西側情勢を詳しく質問していた。ちょうど東西冷戦が終わろうかという時期で、米国を中心に西側の状況を色々と聞いた。父は「国益に反しない限り、質問には答えた」と言っていた。

会談の最後に、父が「(1983年から北朝鮮に乗組員2人が抑留されていた)富士山丸はどうなっているのか」と尋ねた。「2人の行為が貴国の法律に違反したことはその通りで謝罪する。ただ、8年も抑留され、2人も反省していると思う。人道的措置として釈放してほしい」と要請した。

金日成は「結構です。釈放しましょう。金丸先生の帰国チャーター便で帰らせるようにします」と言ったが、父はその申し出は断った。父は「寛大な決断に、心からお礼申し上げる。ただ、日朝政府間交渉の開始合意の見返りのような行動は避けるべきだ。2つの問題は次元が違う。バーターにするのは、金日成主席に迷惑になるかもしれない。労働党創建記念日の10月10日に祝賀訪問団を送るから、そのときに帰して欲しい」と語ったという。

父は宿舎に戻ってくると私に「小沢一郎(当時の自民党幹事長)に電話しろ」と命じた。父は小沢氏に「いっちゃん、1カ月後に日帰りで良いから日程を作ってくれ」と頼んだ。それで10月に小沢氏と社会党の土井たか子氏らが訪朝して、2人を解放した。

その夜、金日成がお別れのあいさつに招待所にやってきた。金日成は「これで私と金丸先生は同じ船に乗った。しかし、泥舟になるかもしれない。私と金丸先生とで力を合わせ、泥舟になっても国交正常化という目的地に向かってこいで行きましょう」と笑顔で語っていた。

金丸信吾氏=牧野愛博撮影

――3党共同宣言ができるまで、どのような経緯があったのですか。

父が3党共同宣言を提案すると、みな賛成した。内容は同行した議員団に任せ、父は別室で待機していた。私は同行していた外務省の川島裕さん(後の外務事務次官)と一緒に協議を傍聴していた。

川島さんが一生懸命、議員団に後ろからメモを入れていた。北朝鮮の金養建(キム・ヤンゴン。後の労働党統一戦線部長)が怒り、「お前はここにいる資格がない」と言って、川島さんを追い出した。徹夜で協議したが「戦後45年間の謝罪、十分な償い」の表現などで対立した。まとまらず、議員団が父に「だめです。まとまりません。宣言なしで帰りましょう」と報告した。

そこで、父が「金容淳(キム・ヨンスン。党国際担当書記)と田辺を呼べ」と言って、3人で相談した。私が川島さんに「この表現を入れたら、日本で問題になりますか」と聞くと、「外交では問題になるかもしれない。ただ、これは政府ではなく政党の宣言。金丸先生が腹をくくるなら良いのではないか」という答えだった。それで父に「おやじさんが泥をかぶるなら、これでいいかもしれません」と伝えた。

父は「俺が泥をかぶればいいのか」と言ってまとめた。父は後に「本来なら1965年に韓国と同時に国交正常化しているべきだった。謝罪という表現は、65年から今までの金利のようなものだ」とも語っていた。

――金丸訪朝を契機に91年から92年にかけ、計8回の国交正常化交渉が行われました。

私はこの時期に、計10回訪朝した。うち7回は金日成と会談した。北京でも2回、北朝鮮当局者と会談したことがある。政府間交渉で対立点が出ると、父が「金日成と調整してこい」と言って私を送った。北朝鮮では2回、金正日(キム・ジョンイル)とも単独で会った。

当時は、日本が韓国との国交正常化の際に支援した5億ドルが、北朝鮮に対してはいくらになるのかという点に注目が集まっていた。父からは経済協力の金額について「金日成から聞かれても答えるな。裏で決めると後でもめる」と厳しく命じられていた。

政府間交渉も行き詰まり、92年10月に佐川急便事件で金丸が議員辞職したため、北朝鮮との関係は途切れた。

――その後、どうやって北朝鮮とのパイプが復活したのですか。

2002年5月に金養建から突然、招待を受けた。「久しぶりに来ませんか」という話だった。訪朝すると、金養建が「日朝は停滞していたが、今年は劇的に動くでしょう。金丸先生と主席は亡くなったが、当時携わった方として、2人が約束した国交正常化のために色々と協力してほしい」と言った。

私が「なぜ、劇的に進むのか」と尋ねても答えなかったが、02年9月に日朝首脳会談が実現した。それから、私はたびたび訪朝し、最後に昨年、22度目の訪朝をした。

■新しい政権の展望

――安倍政権は最重要課題にすえた日本人拉致問題を解決できませんでした。

安倍首相は昨年、「今度は私の番だ。無条件で日朝首脳会談を行う」と語った。その後、平壌で宋日昊(ソン・イルホ。朝日国交正常化交渉担当大使)に、日朝関係の現状について尋ねた。

宋は「何もない。安倍の発言は、単なる日本国民に向けた、『私はやっています』というパフォーマンスに過ぎない。拉致が解決して一番困るのは安倍だ。今の状況が一番いいのだ」と言った。

02年9月の日朝首脳会談で、北朝鮮側は2つのことに怒っていた。

ひとつは「拉致被害者の一時帰国」という約束を破った。北朝鮮は「一時帰国にするのは、北朝鮮に残る家族の問題があるからだ。この問題を整理したら、きちんと帰国させる」と説明し、小泉首相も了解していた。北朝鮮は私にそう説明している。

もう一つは、金正日総書記が準備した食事を拒んだことだ。日本は弁当持参で、水も準備したペットボトルで飲んだ。北朝鮮は侮辱されたと思った。外交的に非礼な行動だった。

そしてその二つを差配したのが安倍首相だった。安倍首相が、拉致問題を武器に首相になったのは間違いない事実だ。最後には、振り上げた拳を下ろせなくなった。北朝鮮から譲歩を引き出したいなら、自分たちも譲歩しないと難しい。

北朝鮮は「安倍が拉致を人道問題から政治問題にした」と言って怒る。「拉致産業にした」とも言う。

北朝鮮は「(2014年に拉致被害者らの再調査で合意した)ストックホルム合意について、日本は『北朝鮮は調査もしていない』と言うが、我々は中間報告を渡そうとしたのに、日本が受け取りを拒否した。死亡を認めることになるという心配があるからだろう」と言っていた。

平壌で2002年9月、初の首脳会談を前に握手する小泉純一郎首相と金正日総書記(代表撮影)

――なぜ、金丸元副総理と金日成主席は信頼関係を作れたのでしょうか。

父の口癖は「外交は信頼」「信頼なくして外交はできない」だった。父は、1度しか金日成に会っていないが、確固たる信頼関係をつくった。主義主張は全く違うが、人間として信頼できると思ったのだろう。

――次の政権で拉致問題は解決できるでしょうか。

誰が総理になっても、劇的に変わるとは思えない。例えば、「横田めぐみさんは死亡したかもしれない」と言う政治家はいないだろう。本当に生きていてほしいが、「横田さんは死亡した」という北朝鮮の主張とは対立し、対話の糸口はつかめないだろう。

また、「北朝鮮に拉致された可能性を否定できない」とする特定失踪者が800人以上いる。北朝鮮が過去、拉致を行ったことは事実だが、特定失踪者全員が北朝鮮に拉致されたとは信じられない。安倍政権はその特定失踪者も含めた「全員の帰還」を求めていた。

強硬な政策だけでは拉致問題は解決しない。圧力をかけ続けても、自尊心の強い北朝鮮は絶対に屈服しない。「一億玉砕」を唱えた昔の日本に似ている。日朝国交正常化こそ、拉致問題や核・ミサイル開発などの懸案を解決する近道だ。

――独裁国家の北朝鮮に経済支援することに意味があるのでしょうか。

韓国に対して支払った5億ドルの決め方も使途も不明瞭な点が多かった。「北朝鮮は独裁国家だから払わなくて良い」ということにはならない。

対話するからと言って、北朝鮮の主張をすべて受け入れるわけではない。

2012年に訪朝した際、平壌市内の劇場で、金日成主席生誕100年を記念して思い出について語って欲しいと頼まれた。

だが、現地に到着したら原稿を渡された。自分が書いた原稿ではないし、「主席が金丸を接見した」など、上下関係をつけていた。拉致や核ミサイル問題にも触れていないので、断った。「自分で原稿を書けないなら、語らない」とも申し入れたところ、最後は相手が譲歩したこともある。

むしろ、日本で核や憲法改正に反対している人々が、訪朝すると北朝鮮を礼賛する姿を何度も見てきた。「先軍政治は素晴らしい」と言い、核開発に抗議しないのは矛盾だろう。

――対話がないと何が困るのでしょうか。

私の訪朝に同行するメディアには「斜めからではなく、まっすぐ見ろ。興味本位で報道するな」と言っている。対話がないから、一般市民は「北朝鮮は怖い国だ」とばかり思っている。日本の政治家はあまりにも北朝鮮を知らない。よく、内閣官房など政府の人間が私に「北朝鮮の話を聞かせてくれ」と言ってくるが、あべこべだろう。

2012年当時、私の原稿を準備したのは、朝鮮対外文化協会で働く女性だった。この女性は「3党宣言のとき子どもでしたが、これからは日本だと思って日本語を勉強しました。しかし、今は後悔しています」と言っていた。仕事がないからだ。

今年も、9月28日の3党共同宣言30周年の時期に訪朝するはずだったが、新型コロナウイルスの感染で延期になった。これからも、対話の窓口であり続けたい。

■次回は、2002年9月の小泉純一郎首相訪朝と平壌での日朝首脳会談に尽力した田中均・元外務審議官に聞きます。(9月28日配信予定です)