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インドの大家族に支えられ続けた仕事 コルカタで育む日本との橋渡し

アジアで働く
夫と長男、長女とともに映るニガム和子さん(左)。当時はサリーを毎日来ていた=1984年

イギリス植民地時代の拠点として、世界屈指のメガシティだった、インド東部コルカタ。人口13億人の現在のインドにあって、特に人でごった返す過密都市だ。そんな街に、半世紀近く暮らし、日本とインドをつないできた女性がいる。

ニガム和子さん(72)。1972年にインド人の夫と結婚後、コルカタに移り、74年からインド人に日本語を教えてきた。「テキストに出てくる単語を使って、文章を必ず書いてもらいます。書くことは覚えることにつながります」。コツコツと学ぶ姿勢と、言葉以外の日本の文化や慣習も、できるだけ伝える。今春に閉校した日本人のための補習授業校の校長も務めた。

コルカタは、日本軍と協力してイギリス軍と戦った、インド独立の「英雄」チャンドラ・ボースの出身地。親日的な雰囲気が残っている。政治の街デリーや商都ムンバイとは異なり、文学や音楽など文化の中心とも言われる。「ベンガルは日本びいきです。日本人と直接、出会って学びたいという思いを多くの人たちから感じてきました」

当初は教材がなく、自分でつくった。いまでは、三島由紀夫を読み込むレベルの生徒も育った。インドでは目上の人や教師を尊敬する文化が根強く残り、「センセイ、センセイ」と呼ばれて慕われる。「教えていた生徒の子どもが学びに来たり、結婚式に呼んでくれたりするのがうれしいですね。生徒たちが自分の生活を築き上げていくのをみるのは、自分の子が成長しているように感じます」

日本語教室で教えるニガム和子さん(右奥2人目)=1988年

日本語クラスを学び終えた人たちでも、日本と関わりを持ち続けてほしい。日本語を使って交流してほしい。そんな思いから、「日本語会話協会(NKK)」を84年に設立。このボランティア活動の一環で、96年から日印両国の学生が毎年、互いの国を行き来して交流を深める「日本インド学生会議」を始めた。インド側の責任者として、両国の橋渡し役となってきた。

インドの学生たちが寺院でひたむきに祈る姿を目の当たりにして宗教について考えたり、マザーテレサの施設「マザーハウス」でのボランティアを協力したり。日本の学生は、インドの貧困などの一面に注目して「スラムを見学したい」と言いがちだが、インドの学生は自国がそう見られることに当然、複雑な思いを抱える。ただ、スラムなどに行くことに気の進まなかったインドの学生には学生会議での経験がきっかけで卒業後、それまでは考えもしなかったNGOの仕事を選んだ学生がいた。日本とインドの参加学生どうしで結婚した人もいた。

学生が準備から運営まですると、多くのトラブルに見舞われる。両国の文化の違いによる行き違いも生まれがちだ。だが「センセイ」は、学生を信頼してほとんど口を挟まない。

ニガムさんは言う。「日本では自分よりも相手のことを考えなさい、と教えてこられますね。日本の学生はゴールに向かって計画を立てて、プロセスを大切にします。でも、インドは自分が中心。自分の意見をはっきり言うので、まとめるのもとても大変。計画をつくってもその通りには進まないから、直前にバタバタと間に合わせる。日本からみれば、インドのやり方は場当たり的かもしれません。でも、何かハプニングが起こった時、日本の学生は困ってしまってもインド人は機転を利かせて、まとめてしまう。お互いに学ぶ所があるのでしょう」

父親が保険会社に勤めていたため、姫路や鳥取、京都、函館、松山と転々として育った。函館に住んでいた高校2年の時、父は松山に転勤し、残された自分は下宿生活をした。父の後を追うようにして松山の短大に入学したが、後に父は大阪に。「引っ越しは慣れていたので寂しいと思ったことはありませんでした。むしろいろんな所に旅ができると、喜んでいました」

短大で栄養士の資格をとり、海外の技術者研修を受け入れた旧「海外技術者研修協会(AOTS)」の関西研修センターに就職した。日本語や技術を学ぶ外国人に朝、昼、晩の食事を作った。世界には、菜食主義者や豚肉を食べられない人がいることを知った。海外には、まだ行ったことがなかった。

インドでは、日本で学んだ華道も教えてきたニガム和子さん(中央)=1976年

インドから技術研修に来ていたラヴィ・クマール・ニガムさん(74)の人柄にひかれ、結婚を決めた。国際結婚は珍しかった時代で、両親は驚き、「少し考えさせてほしい」と約1カ月間、考えていた。ニガムさんにとっても、インドといえばカレーくらいしか思い浮かばない。インド人は、みな頭にターバンを巻いているとさえ思っていた。最後は、両親は「自分が幸せになれるのならいいよ」と認めてくれた。

結婚してすぐ、インドに移住した。初めて見たコルカタは、人であふれる街だった。インドに来た72年の前年は、第3次印パ戦争があった。コルカタのある西ベンガル州と国境を接する東パキスタン(当時)がバングラデシュとして独立する戦争だった。コルカタの路上や駅には戦火を逃れた難民が大勢横になっていた。「昼間に寝ている人たちをみて、この人たちは死んでしまったのではないかと怖かった。車はまだ少なく、牛が道を歩いていた。のんびりした風景でもあった」と振り返る。

インドは大家族で住むのが当たり前だった。夫の祖母と両親、叔父や兄弟とその妻。義父は自転車の部品をつくる工場を経営していた。夫の祖父は1920年代に船で神戸に行き、新しいビジネスを興そうとしたといい、親日家でもあった。家には住み込みのお手伝いやコックがいた。日本では寮暮らしで家族とあまり一緒に住んでいなかったため、少し窮屈に感じたこともあった。「食事は家族全員、大勢で食べる。食事中は使用人がすぐ背後に立っていて、食べている姿をじっと見ている。チャパティがなくなったらすぐに新しいのを持ってくるためですが、落ち着かなかった。夫と二人で食べたいと思っていました」

だが、その大家族の結びつきの強さに何度も助けられた。コルカタで日本語を教えていた日本人のベンガル文学研究者が帰国することになり、後任を頼まれて日本語を教えるようになった。子どもを産んだ後に仕事を続けるかどうか、悩んだ。夫の母は「やめないで続けなさい」と背中を押してくれた。女性が外で働くのは珍しい時代だったが、義母が子どもの世話を支えてくれた。「家には台所が二つあり、宗教的にタブーだった牛肉や豚肉を食べたいなら、別の台所で調理すればいい。そう言ってくれるほど、母はモダンな女性だった。女性も自立すべきという考えだったのかもしれません」

男性中心の考え方がなお強く残る社会だとされるインド。しかし、女性だからという理由で理不尽な目にあったり、困ったりしたことはなかった。ニガムさんがインドに来た72年は、日本で男女雇用機会均等法の元となる「勤労福祉婦人法」が公布された年。事業主に妊娠中の女性労働者の健康管理への配慮を求めるなどしたが、ニガムさんの目にはまったく不十分だった。「男女の賃金格差が日本ではまだまだあったが、インドでは基本的に一緒だった。活躍している管理職や政治家に女性も多い」と語る。西ベンガル州の州首相は現在、女性が務める。

つらくて日本に帰りたいと思ったことは、一度もなかった。強いて言えば、食事は毎日カレーであること、蒸し風呂とも言われるコルカタの高温多湿の中で、クーラーがなかったことくらいだ。体中にあせもができた。

旭日双光章の受章記念パーティーで、(左から)夫のラヴィ・クマール・ニガムさん、ニガム和子さん、多賀政幸・前コルカタ総領事、長女のマユリ・ニガムさん

インドに住む日本人の数は年々増えている。だが、コルカタは例外だ。難民の増大や多発するストライキなどを嫌った企業がムンバイなど他都市へと移転し、経済の地盤沈下が進んだ。また、インドは各州の権限が強い連邦制をとる。1977年から2011年までコルカタのある西ベンガル州で政権を担ったのがインド共産党マルクス主義派だったことも、資本の逃避を招いた。就職先は少なく、地元の学生は他州や海外に出て行く。日本企業も移転や撤退を続け、日本人学校は86年に閉校した。その後、日本語の補習校としてニガムさんが校長を務めたが、その補習校も今年3月に閉校した。

86年の閉校時、当時通っていた子どもたちは校舎のそばにそれぞれの手紙を入れたタイムカプセルを埋めた。25年後に集まって、みんなで掘り出そうと約束した。その約束の年が来年だ。「日本人会や商工会がとても協力してくれました。でもコロナで集まるのは難しいでしょうね」

昨年11月、日本文化や日本語の普及を通じて日本とインドの友好や相互理解を深めたとして、旭日双光章を受章した。「誰かのお役に立てればと思ってやってきました。私はいつまでできるかわからないけれど、サポートしてくれる人の輪ができています」。生きてきたインドと日本を結びつける人材が育っていることに、喜びを感じている。