「実は今日が最後の勤務日なんです」
昨年12月、常連になって親しく話すようになっていたネイルショップの20代の女性職員から突然、こう打ち明けられた。
「夫と一緒にカナダに移民することにしました」
突然のことで、その理由を聞いてみた。
「私はソウルで生まれ、地獄のような大学入試をくぐり抜け、カナダで語学研修もしました。卒業できたのは両親のおかげでもあります。でも、正規職の仕事には就けなかった。愛する人と出会って結婚したけれど、韓国で子どもを産み、育てる自信はない。私と同じ苦しみを、子どもに味わわせることはしたくないですから」
女性は、カナダに行っても、どのように暮らすのか全く準備はしていないともいう。
「夫と一緒に当分の間はビザなどの準備をしようと思います。家族も友人もいない外国でどうやって暮らすか先行きは見えない。でも、韓国よりはマシだと思う」
韓国で移民といえば、これまでは主に中年以上の人たちが子どもの教育のため、あるいは引退後の暮らしのために選択するものだと考えられてきた。
しかし最近は、大学入試や就職など「ヘル(地獄)朝鮮」とも表現される競争社会に嫌気がさした青年たちが、国外への移民を望む傾向が強くなっている。外国でどんな職業について暮らしていくのかは分からないが、それでも心の余裕だけは持てるだろうというのが、こうした若者たちの切なる願いだ。
実際、外国で就職しようとする若者もここ数年、増えている。韓国の産業人力公団によると、2018年の国外での就業者数は5783人で、13年の1607人と比べて4倍近くになった。青年(15歳~29歳)全体の就業者数が395万人(2019年)であることをみれば、規模としてはまだ少ないが、増加の傾向はとどまることをしらないようだ。就職をあっせんするインターネットサイト「インクルート」の最近の調査によれば、約1000人の回答者のうち約5割が韓国での就職に失敗すれば、国外での就職を考えると答えている。
韓国では3、4年前から、「ウォラベル」という言葉が流行している。英語の「ワーク・ライフ・バランス」をハングルで読んだときの頭文字からとった言葉だ。韓国は、経済開発協力機構(OECD)加盟国のうち、労働時間が最も長いとされる。これを改善し、「夕食を家族や友人とともにできる人間らしい暮らし」を実現しようと、韓国政府は2018年7月から、週あたりの法定勤労時間を68時間から52時間に短縮する新たな制度を段階的に導入している。夜遅くまで続くことが多かった職場の飲み会の文化も少しずつなくなり、定時の退勤が当たり前のようになっている。
職業紹介企業が2020年1月2日に行った世論調査によれば、20、30代の若い会社員は、理想的な職場の条件として、49.9%の人が「ワーク・ライフ・バランスの保証」を第1に挙げた。ただ、それに見合う職場は足りないことも分かった。回答者の48.3%が、韓国で理想的な職場は少ないか、ほとんどないと考えていたのだ。
私の弟は、雇用が安定している韓国の大企業に通った後、多国籍企業に転職して10年になり、今は国外で暮らしている。この弟に聞いてみた。韓国では最近、定時に退勤して夕食を家族と食べる人たちが増えているけど、そっちの国はどう?
「韓国で定時に退勤したからといって、家で何をするの? だって小学校の低学年の子どもたちだって、大学入試のための塾で夜10時まで勉強しなければならないでしょ? 妻は塾の費用をはじめ教育費を心配して、オレの残業代をあてにするだろ。つまり、もっと働けってことだ」
冒頭の女性にしろ、弟にしろ、外国で暮らすということは、暮らしのための現実的な選択なのかもしれない。ただ、祖国や家族に対する懐かしさは、そんなリアルさとは別にあるのではないか。そう私は考えていたのだが、韓国に戻る考えはあるのか聞いてみた。ただ、弟の答えは、またもや現実的だった。
「姉さん、オレに会いたいなら、いつでもインターネットのビデオ通話をすればいいよ。ああ、そうだ。この前、姉さんが面白いと教えてくれた韓国ドラマ、ネットテレビでみたよ。ありがと」