東京都八王子市、高尾山を南に望む工場地帯にある栄鋳造所。鈴木は、祖父の代から続く鋳物工場の4代目社長だ。社員32人中、7人が外国人。3人は難民認定を申請、コンスタントもその一人だった。「国を出たのは政治的な問題。鈴木さん? お父さんみたい」と言うと、鈴木は照れた笑みを見せた。
隣の事務所には韓国人が勤務していた。韓国人インターンの受け入れを進めた末に昨年設立した栄コリアの社員たちが、研修で入れ替わり訪日している。12月には米アイダホ州で栄USAも立ち上げた。今や売上高は約7割が海外だ。
八王子市で長く中小企業支援に携わってきた市職員、柏田恆希(43)は言う。「ものづくりの世界で外国人雇用というとコストカット目的が多いなか、彼は付加価値を上げるためにやっている。そもそもこの規模でこんなに外国人を雇っている工場も、なかなかない」
難民雇用というと、人道支援と思われるかもしれない。だが鈴木にとっては、生き残るための人材戦略だった。
8年半前は、「ほんっとに夜逃げしようと思ってました」と鈴木は振り返る。
自他ともに認める「イベント企画好き」の鈴木は高校卒業後、近郊のレジャー施設運営会社「東京サマーランド」に就職。一方の工場は「就業中には軍歌が流れ、雰囲気も暗かった。いくらオヤジの会社でも行くもんか、と思ってました」。渋々入社したのは「お父さんを助けて」との母・陽子の説得に折れてのことだ。
「オヤジ、何してくれてんだよ」
だが、当時の主な取引先は国内自動車メーカー。消費税率引き上げ前の駆け込み需要や軽自動車の規格変更の特需の反動で、業績が悪化。1952年創業の有限会社は、事実上、倒産した。
新たに株式会社をつくって社長となり、再出発していたなか、2008年7月のある朝、自宅の電話が鳴った。会長の父・敏雄が交通事故で亡くなった、との知らせだった。まだ62歳だった。
父からは、全業務を引き継いでいたわけではなかった。母はすでに他界。慌てて会長室の金庫を開けると、出てきたのは消費税と社会保険料の納付書の束。数えると計約7000万円分に達した。税務署と社会保険事務所に恐る恐る電話したら「全部、滞納してますよ」。青ざめて生命保険会社に電話すると「3カ月前に解約されてます」。いつのまにか韓国人女性と結婚していたこともわかった。事故の賠償金の半分は彼女が相続した。
税務署で頭を下げ、分割返済を認めてもらったところへ、リーマン・ショック。「自動車関連の仕事がどんどんなくなった」。たい焼きチェーン店からようやく鋳型の注文をとったが、同業者は「あいつんとこも落ちたな」と陰口をたたいた。
鈴木は父の墓に「オヤジいったい何してくれてんだよ」と思わず砂をかけた。
だが、父がいざなってくれたものが、再生のきっかけとなる。
父は死の前年、「おまえにも異業種の仲間が必要だ」と鈴木を無理やり、柏田が事務局にいた八王子市の後継者育成塾「はちおうじ未来塾」に通わせた。その時の仲間のツテで鈴木は12年、米シリコンバレーへ。中国系オーナーの金属加工工場を見学し、衝撃を受ける。「製品は傷だらけ。縁のギザギザの『バリ』もとってなかった」。コストも自分たちとさほど変わらない。それでいて「2年先まで仕事が埋まっている」と聞かされ、「ショックでした。僕らは、来月仕事どうしよう、っていう世界なのに」。
海外に進出するには何が足りないのか。鈴木は帰りの機内で、課題を紙に書き続けた。海外経験は旅行程度、英語も話せなかった。「まずは外国人に壁を感じている意識を、自分も社内も変える必要があるんじゃないか?」
鈴木は「壁」を壊すため、まずは外国人と働こうと考えた。帰国するや、人材派遣会社から転職したばかりの新武浩専務(39)に切り出した。「日本で長く働ける外国人を連れてきてくれ」。新は「あまりにも大ざっぱな指示。どうやって探すんだ、って思った」が、方々をあたり、「難民」に行き着いた。難民の知識などほとんどなかった鈴木は面くらいつつ、新をNPO「難民支援協会」に行かせた。
協会の紹介で、難民認定を受けたミャンマー人男性に会った。ラーメン店のバイトで生計を立てている彼が4カ国語を話せると知り、「難民ってこんな人たちがいるんだ、すげーなー、って思った」。不安のせいか彼の目が曇っているのに気づいた鈴木は面接で切り出した。「鋳造の技術はおまえの国でも絶対必要になるから、それまでうちで覚えろ。帰国したら俺が投資してやる」。彼の目がみるみる涙であふれた。難民雇用の始まりだった。
面接に同席した新は振り返る。「彼は『そんな風に言われたことない』って感銘を受けてましたね」。新は実は当初、「横柄で何でもストレートに言う」鈴木が苦手だったが、次第に「ウソのなさ」にひかれ、腹心となる。
つかみ合いのけんかにも
現場は戸惑った。日本語を話せないイラク人の難民申請者も雇うと、社員の間でストレスが漂い始める。ついにはイラク人との間でつかみ合いのけんかに。「連れてきた張本人」として新は現場から冷たい視線を浴びた。鈴木は工場長から「これ以上外国人を入れるなら、全員でボイコットします」と詰め寄られた。
鈴木は頭を抱えた。だが新に「僕を外しますか、それとも残しますか」と突きつけられ、覚悟を決めた。「おまえに残ってもらう」。工場長は辞表を出した。
社内が「自ら変わらなきゃいけない、っていう雰囲気になってきた」のはその頃からだそうだ。社員たちは現場の掲示を英語で書き、英会話を始めた。入国管理局との必要な手続きも覚えた。
鈴木は言う。「そうして社内の環境や意識が変わっていった。そのきっかけがたまたま難民だったってことなんです」
海外取引も増え、このまま安定成長をめざすのかと思いきや、鈴木は「長く続けてくれる経営者にバトンを渡す」計画を見据える。「オヤジの後を継いで一生終わるのか?と。45歳からは自分が本当にやりたいことをやりたい」
フィリピンに15年、中小企業の海外展開や後継者探しを支援する企業をつくったのはその一環だ。「僕がすごく遠回りしてきた部分について、後から続く人たちをサポートしたい」
父の墓にも、そう報告した。今度は、水を丁寧にかけて線香を上げながら。
(文中敬称略)
大半が5か1と明快だ。「分析力・洞察力」「体力」「決断力」「行動力」「独創性・ひらめき」が5なのは「これぐらい自信持ってないと」と思うからこそだ。自称「飽きっぽい」ことから、「集中力」と「持続力・忍耐力」は1に。 ただ、昔なら「ためらいながら4や2をつけてたと思いますね。今は、自分の弱点も堂々と認められる」。
「協調性」だけは中間の3をつけた。「協調性って良しあし。協調しなきゃいけない時と、そうでない時がある。みんなの意見が9割固まった時でも、俯瞰(ふかん)するとちょっと違うと思う時はあえて声を上げてます」
MEMO
書き初め…鈴木は年初には社員に、今年の目標を表す言葉の「書き初め」をさせ、社内に年末まで貼り出し続ける。「仕事納めの日には一枚ずつ持ってみんなの前に立たせ、振り返って自分はどうだったかレビューをさせています」と鈴木。カタカナの「ガンバル」が印象的なハッサンは難民申請中のエジプト人。「日本語はまだ覚えきれていないけど、英語とドイツ語ができる。国外向けのマーケティングも少しずつしてもらおうかなと」
家庭では…鈴木が「相方」と呼ぶ妻・亜希(44)とは仕事の話はせず、中学2年と小学3年の娘2人にも「仕事臭は出さない」。自身が小さい頃から工場について両親から聞かされ、夫婦げんかも見てきただけに、「やっぱ染みつくんですよ、どっかに。娘たちには、そうやって人生を決めさせたくない。まっさらな気持ちで、自分が興味を持ったものをやらせてあげたい」。