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超学歴社会・韓国で「脱スペック」を訴える 元カリスマ講師の「転身」

グローバル教育考 更新日: 公開日:
ソウルで、大学修学能力試験の会場に向かう受験生を、後輩の高校生が応援していた(2012年11月)=ロイター

韓国は日本を上回る超学歴社会だ。少しでもいい大学へ、いい就職先へと、子供達がしのぎを削る。英語も20年以上前から小学校の必修科目だ。過熱する一方の受験教育に疑問を持ち、「これからは脱スペックの時代」と訴える教育評論家が韓国にいる。元カリスマ予備校講師、イ・ボムさん。ソウルで話を聞いた。(朝日新聞編集委員・山脇岳志)

イ・ボムさんは、1969年生まれ。ソウル大学で分子生物学を学び、同大学院で科学史などの博士課程を修了した。韓国大手予備校「メガスタディ」の創立メンバーで、化学や物理など4科目を教えた。暗記型ではない「聞けばわかる」授業が売りで、「年俸18億ウォン(約18000万円)のカリスマ講師」として注目された。

塾業界に幻滅して2003年に業界から去った後は、ハンギョレ新聞のコラムニスト、ソウル市教育庁の政策担当補佐官、現在の与党のシンクタンク、民主政策研究院副院長などを務めた。今もソウル市などの教育行政にアドバイスをしているイさんに、ソウル市教育庁の会議室で会った。 

教育評論家のイ・ボムさん=ソウル市教育庁で

過熱する英語教育、公教育への不信

 まず話題にしたのは、低年齢化する英語教育のことだ。

日本では2020年度に、小学校3年から英語が必修化され、56年生で正式の「教科」として成績がつく。韓国はすでに1997年度から小3以上で必修化されている。さらに、公立の幼稚園や小学校12年生に対しても、希望者には放課後、学校に講師を招く形で英語の課外授業が行われてきた。

だが、英語の早期教育があまりに過熱し、幼児や児童の負担になっているなどの判断から、韓国の教育省は、英語の課外学習を廃止する方針を打ち出した。これに対して保護者らは「(私教育にお金を払える)金持ちが有利になる」などと反発、社会問題化している。この春から小学12年で課外授業はなくなったが、幼稚園では今も続いている。

このいきさつについてイさんは、「そもそも小学校で週に23時間の学習だけでは、外国語は習得できない」と、やや突き放した見方だ。

加えて、「早くから英語を教えたいという親が思う背景には、公教育への不信感があります。名門大学に入らないといけないが、公教育だけでは一定レベルの英語の水準に到達できないということが経験的にわかっている」。

「宿題や課題を与え、先生が管理し、家でインターネットやテレビなどを通じて勉強するなどの方法で学習時間を増やす方法もあるが、今の公教育はそういう方法をとらないから、(お金がかかる)塾や私立校に流れてしまう」

そうした課題を解決するために、ソウル市の教育庁と一緒に、オンラインを利用した家庭での英語学習システムを検討しているという。 

大学でも会社でも、競争が続く

韓国は日本以上に学歴社会といわれる。大学入学後も熾烈(しれつ)な就職戦線に向けて、英語能力検定試験のTOEICの点数を上げ、さまざまな資格を取ったり、ボランティア活動やインターンをしたりといった「高スペック化」に励む。日本で「ハイスペック男子」というと、高学歴、高収入のほかに容姿も含めるケースがあるようだが、ここでは履歴書に書ける項目を増やす意味での「スペック」だ。韓国人のTOEIC(リスニングとリーディング)の平均スコアは、97年には480点だったが、昨年は676点まで上昇した。

ソウルで、大学修学能力試験に遅刻した受験生を会場へ送り届ける警察官(2011年11月)=ロイター

背景には「若者の就職難」がある、とイさん。政府統計では、韓国の青年(15歳から29歳)失業率は、10%前後まで上昇している。

「政府は従来の経済成長とは違う新しい分野の成長を促す政策を出しているが、韓国の労働市場は二極化しています。25%が大企業、正規雇用で高収入、残り75%は中小企業や非正規で低収入の仕事になっています。会社の中の出世競争もあるし、75%の側にならないための競争もある。たとえ経済環境がよくなっても、この複合的な競争によって、今の競争社会はなかなかましにならないのではないかと思います」 

ソウルの寺で息子や孫の大学入試の成功を祈る人たち(2012年11月)=ロイター

「高スペック」から「脱スペック」へ

 韓国では、財閥系の大企業が依然として就職先として人気だが、イさんによると、企業の雇用方法にある変化が見られるという。この変化もみすえつつ、イさんは改革のキーワードとして「脱スペック」を掲げる。

イ・ボムさんの著書「私の仕事 私たちの未来」

「韓国の大企業の採用方式はもともと、日本から学んだ定期採用でした。年に一回、数千人を採用して、彼らに教育訓練をして、配置する。採用する時には、その人自身もどんな仕事をするのか分からない。採用担当者は、何でもできるオールラウンドタイプの人を採用しがちだった。様々なスペックを兼ね備える人が優遇されてきました」

「しかし韓国の労働市場は急速に、欧米のような随時採用に変わってきています。どんな仕事に就くかがあらかじめわかっていて、必要な専門性をもった人を採用することになる。何かひとつ専門性を備えた人が有利になります。その意味で『脱スペック』という言葉を使っています。今の労働市場の変化を踏まえれば、これから子どもたちに必要な能力は、自ら課題を設定して、正解のない問いに対する答えを探し出していく力だと思います」 

必要なのは、自ら学ぶ力

 日本でも文部科学省が教育改革に乗り出し、生徒自身が能動的に学ぶ「アクティブ・ラーニング」を重視する流れが生まれているが、イさんは「何を学ぶか、子ども自身が決められることが大事」と主張する。

「子どもが何を学ぶか自ら決められることが大事」とイ・ボムさん

「体系的な知識を習得することに意味がないとは思いません。でも、人工知能(AI)などの登場で『第4次産業革命』が起こっているといわれるなか、公教育が何を与えられるかを考えた時、一番肝心なのは子ども自身が何を学ぶかを自ら決められるようにすることだと思います。欧米では中学生のころから受講したい科目を自分で選び、高校になるとさらにその幅が広がる。韓国でもようやく2022年から、高校生に科目選択権が与えらえることになりました。課題解決型の学習(Project Based Learning)を通じて、学習の目標と研究課題を生徒が決めることも重要だと思います」

このあたりの見方は、前回この欄で取り上げた米国の元ベンチャー投資家、ディンタースミス氏の意見と重なり合う。

<関連記事> 米教育界の論客が映画で見せた「これからの教育」 

「もっと教師に自由を」

 イさんはこの春から、韓国MBCの朝の人気ラジオ番組でパーソナリティーを務めている。「イ・ボムの教育特講」「私の仕事 私たちの未来」などの著書もあり、これらを通じて、これまでの教育制度を「創造性の妨げになる」と批判している。

「教師に自由がなければ生徒の創造性は育たない」とイ・ボムさん

「韓国と日本で共通している特徴は、現場の教師一人一人に、非常に低い自由や自立、裁量しか与えられていないこと。教科書の執筆はおろか、選ぶこともできない。欧米社会では、教師は、やろうと思えば教科書を自ら作ることもできる自由がある。教師一人ひとりに自由や自立、創造性が許容されていなければ、生徒の創造性を育む教育をするのは難しいと思います」

教師の自由の問題だけではない。イさんは、日本と韓国は大学入試に関しても共通点があるという。日本のセンター試験と、韓国の大学修学能力試験の比較だ。

「韓国と日本、アメリカのSATでは試験問題を4択、5択で出しているが、ヨーロッパ各国の試験は論述型が中心。入試問題は正解が決まっていて、入試そのものが創造性の妨げになっています。教師に教えるうえでの裁量権を与え、入試を論述式に変えることで、大きな変化につながると思います」

 「アイデアを重視する評価に変えよう」

 韓国では、AI時代でこれから産業や社会が変わる中で、何を優先し、どのような教育改革を進めるべきか、といった議論が活発になっている。イさんが、「偏差値社会を変えるきっかけ」として期待しているのが「国際バカロレア」(IB)だ。日本でも日本語バカロレアがはじまり、IB教育を行う高校を200校以上に増やす計画があるが、韓国でもIBを導入している学校が増えているという。

<関連>日本における国際バカロレアの取り組み(文部科学省ウェブサイト)

IB教育では教師に自由が与えられていて、試験は論述型。創造性を持って、自ら学べる教育システムです。決まりきった答えを書くのではなく、個々の考えを尊重するという意味で、より民主主義の理念に近い教育方法だと思います。韓国の学校をすべてIBに変えることはできませんが、システムを変えるうえで重要なモデルになると考えています」

ただ、IBが韓国の公教育の全体を代替できると考えているわけではない。「IBはひとつのモデルで、ゆくゆくはもっと韓国化したもの、―我々はコリアンバカロレア、KBと呼んでいますが、IBのコアの部分を取り入れたものを全教科の変化につなげたいと思っています。ただ、KBはまだ決定しているわけではなく、今はIB本部と話し合いを進めている段階です」

 AIに象徴される大きな産業や社会の変化にどう対応するか。イさんの話を聞きながら、韓国が新しい教育の方向性を模索している様子がうかがえた。学歴社会、受験戦争から、創造性を発展させるような教育に切り替えられるのか。韓国が直面している課題は、日本にとっても他人事ではない。