シドニー西部にある州立のラーニーハイスクール(中高)。昼休みを友人たちと思い思いに過ごす子どもたちは、白人以外の姿が多い。7~12年生(日本の中1~高3)の約650人の8割を、中東やアジアなどにバックグラウンドを持つ英語が母語でない生徒たちが占める。
そんな多文化な校内で、ノンネイティブの生徒たち向けのEALD(第二言語としての英語)の教授法を教える、いわば「先生の先生」として活躍しているのが、アビ・サレーさん(44)だ。
「英語を全く知らなかった難民の少女がいました」
教授法を教えるとき、サレーさんは、こんな話から始める。ノンネイティブの子どもたちがどんな状況に置かれているのかを理解する助けにしてもらうためだ。そして、その話の主人公はまさに、サレーさん本人のことなのだ。
空襲から逃れて
サイレンが鳴り響き、アパートの下にある地下壕に逃げ込む。1980年代初頭のイラクの首都バグダッド。パレスチナ人のサレーさん一家は、その街中に住んでいた。
サレーさんの祖父母や父はもともと、ガラリア(現イスラエル北部)に暮らしていた。だが、1948年にイスラエルが建国されると、故郷を追われ、レバノンの難民キャンプで生活を続けてきた。70年代になって、バグダッドの大学で電気工学の講師の仕事を見つけた父は、母と結婚して、イラクに移住した。サレーさんは、バグダッドで生まれた。
80年から始まったイラン・イラク戦争で、イラン軍はバグダッドにも空爆をしかけた。2、3日に一度は地下壕に避難するような日々は、幼いサレーさんにとっても、「トラウマになりそうな状況だった」。戦争が泥沼化の様相を示すなか、父は家族の安全を考えて豪州への移住を決断した。自国民でないパレスチナ人たちを、イラク政府は守ってくれないだろう。そんな不安からだ。シドニーには、レバノン内戦から逃れて移住した親類がいた。
父母と6人の子どもの家族が、難民としてシドニーにやってきたのは83年のことだ。サレーさんは、姉と兄の下の次女。6人きょうだいの3番目だった。
でも、家族で英語ができたのは、父だけだった。8歳だったサレーさんは、英語はもちろん全く知らない。母語のアラビア語さえも、読み書きは怪しかった。バグダッドで1年ほど小学校に在籍していたが、戦争下ではときどき休校になってしまう日々だったからだ。
移住したのは、親類たちも住んでいたシドニー西部オーバーン。そこの公立小学校の2年生に入った。移民や難民の多い地区で、学校にはノンネイティブの英語の上達を支援する先生がいた。ときどき、本来の教室とは別の部屋で、個別に英語のレッスンを受けた。
「英語ゼロ」の状態から、少しずつベースになる英語力が築かれつつあった1年後、一家はキャンベルタウンというシドニー南西部の地区に引っ越した。父は、イラクのときのような仕事をすぐに見つけられず、当時、低所得者向けのアパートが集まるキャンベルタウンに移った。そこは、白人ばかりの地区でもあった。学校でも「クラスの25人中22人が英国系の白人だった」(サレーさん)。そんな場所には当時、ノンネイティブの子どもたちへの英語のサポートは全くなく、先生がとくに目をかけてくれるわけではなかった。
成績はAからEの5段階評価で、算数がAだった以外は、CやDが並んだ。「アビーは理解が足りません」。こんな言葉が通知表に書かれていた。「先生たちは、私ができの悪い子だと思ったのだろう。でも、私はバグダッドにいたときは、成績がよかった」。英語がわからないから、授業の内容が理解できないだけだったのに。学年で四つあったクラスのうち、成績が振るわない子どもたちが集まる一番下のクラスに入れられた。「本当に傷ついた」
「英語ゼロ」で豪州に来た少女は、「英語支援ゼロ」の状況でもがいていた。
私は「できの悪い子」じゃない
「でも、私はそこにいたくなかった」。サレーさんは思い出す。
励ましてくれたのは、家で子どもたちの世話をしてくれた母だ。
「アマンダと遊んできなさい、トニーと遊んできなさい」。英語ができるようになるには学校以外での努力もいると、近所の白人の子どもたちと遊ぶように促した。ダイアナという子とは本当に仲良くなって、どこにいるのか探してまわった。家では、テレビのショー番組を好んで見て、何を言っているのか理解しようと努めた。それが、友達と遊ぶときの共通の話題で必要なのだ。そんな日々を繰り返しているうちに、日常で使う英語は次第に身についていった。
それでも、豪州では南欧系やアラブ系の人を指す「ウォグ」とからかわれたり、「自分の来た国に帰れ」と言われたりした経験もある。仲の良い友人のグループに入っていたときもあれば、昼休みにだれもいっしょにいてくれなくて悲しかったこともある。そんなときは、先生のかばんをつかんでそばで過ごした。「そこが私にとって安心できる場所だった」
父はもともとの専門からは畑違いの社会政策を大学院で学び、州政府の仕事を得た。さらに週末は、電気技師として、ビルの建設現場などで働いた。寝室が三つのアパートは家賃は安くても、シドニーで生まれた末っ子も含めて7人の子がいては手狭だったが、2年ほどで、近くの一軒家に引っ越せるほどにお金を貯めた。そんな父は「教育が唯一の武器だ。とくに女の子にとっては」が口癖で、サレーさんは学校で頑張るのが当たり前だと思っていた。小学校の高学年になるころには、成績が一番上のクラスへ上がった。
とはいえ、学年が上がるにつれて難しくなる勉強の内容に対応してレベルが上がる、アカデミックな英語という意味では、中高生になった後も、「長い間、苦戦していた」と振り返る。英語力が格段に飛躍したと実感できたのは、大学1年になったころだ。「そのとき、何かがはじけたように感じた」
ノンネイティブ向け教育が目指すもの
大学では、教育学を学んだ。子どもたちの人生に影響を与える教師の役割に魅力を感じたからだ。大学4年のときには、EALDの教授法も学び、96年に小学校の教員になった。2008年からEALDを専門にするようになった。現在のラーニーハイスクールでは、EALDの「先生の先生」としてだけでなく、難民の子どもたちの支援担当者の役割も担っている。
私生活では、パレスチナ人でヨルダンからの難民家庭で育った男性と結婚。大学生と中高生の3人の子どもと暮らす。
ずっと働いてきた父はいま、75歳。2年前に完全にリタイアした。母(67)は7人の子育てで働く機会はなかったが、地域の英語教室にも通い、日常生活では支障のない英語力を身につけた。サレーさんのきょうだいはいま、弁護士や州議会議員のスタッフ、歯科技師など様々な分野で活躍している。
サレーさんの人生は、ノンネイティブ向けのEALDの教育を充実させてきた、移民社会豪州の歩みとも重なる。
サレーさんが豪州に来たときには、一部の移民や難民の多い学校に限られていたとみられるEALDの教員は今、多くの学校にいる。サレーさんが管理者になって14年に立ち上げたEALDの教員たちのフェイスブックのグループには、2700人以上が参加。教授法を普及させ、進化させるために、教員同士のつながりも広がっている。
EALDではまず、話す、聞く、を重視して、コミュニケーションとしての英語の土台をつくり、そのうえで、学校の勉強で必要な読み書きを鍛えていく。教室では、グループワークでの子ども同士の助け合い、学び合いを教員が後押ししながら、最後は自分一人で英語を使いこなせるように、レベルアップを図る。
そんな教え方は、「(ネイティブも含む)すべての子どもたちにも有効な教授法です」と力説する。
「教師としての私たちの役割は、子どもたちの潜在能力を十分に引き出してやる手助けをすること。移民や難民の子どもたちが英語に苦労すると、自分を表に出せなくなって、友達もできずに孤立しがちになる。第二言語としての英語を身につけるためには専門性のある教員が近くにいる必要がある」
サレーさんが、自らの歩みを振り返りながら、教授法を教える先生たちにいう大好きなフレーズがある。
Disadvantage is never destiny .
不利な境遇からのスタートを、決して運命にしない。
Teaching: we don’t do it for the income, we do it for the outcome
私たちは、(自分たちの)収入のためにではなく、(子どもたちが達成する)結果のために教えるのだ。