38度の炎天下、私と同じ名字のルセロ・マルティネスさん(43)は声を震わせた。事件のあったウォルマートの隣のショッピングモールにいた、という。
「みんなモールから逃げました。みんなです。中に戻ってきょうだいを探そうとしましたが、見つかりませんでした」。しばらくしてから電話を受け、無事だったと聞いてようやく落ち着いた、と彼女は言った。
8月3日、テキサス州ダラス郊外の街から900キロ以上車を運転してきたクルシウス容疑者が、エルパソを訪れた。
男は、ヒスパニック系に対する不満を書き連ねた「犯行声明」をネット掲示板に投稿したとされ、その直後、モールの横にある大型小売店のウォルマートに入った。射撃用の耳あてとゴーグルをつけ、店内で「AK47」の一種の小銃を乱射した疑いがある。死者は22人に上った。
マルティネスさんは去り際に私に告げた。これからも人生は続いていく。ただ、代償を負いながら、と。「ウォルマートが営業を再開したら行くと思います。けど、怖いんです。だから子どもたちを家に置いたまま、出かけることになると思います」
私も、怖い。
私にとって、親が私たちを置いて外出することは考えられなかった。両親と兄がメキシコを越えて親戚のいるニューヨーク近郊にやってきたのが1986年。私が生まれたのは、その約1年後だった。兄だけメキシコ国籍で、私以下きょうだい5人は米国籍。私は、そんな家庭で育った。
もし家族がニューヨークではなくエルパソに越していたら。あるいは、カリフォルニア州ギルロイに越していたら。
私はそこで育っていただろう。混雑しがちな高速道に文句をつけていただろうし、7月28日に3人が死亡し、10人以上が負傷する乱射事件が起きた「ガーリック・フェスティバル」に行っていただろう。
メキシコ人や、メキシコ系米国人が集中する場所に、私の自宅があったかもしれない。肌の色からすれば地元住民だと周りから思われるような場所に立つのは、初めてのことだった。
事件現場近くの献花場所には人だかりができ、それぞれの思いが込められたメッセージや、真新しい、真っ白な十字架が立て掛けられていた。照りつける太陽を遮るものは何もなく、日差しが皮膚を刺激した。
ヘイトクライム(憎悪犯罪)がもたらしたものは、とても現実とは思えないような光景だった。ありふれたガードレールに囲まれたウォルマートが、突然、だれも入ることのできない事件現場になってしまった。ただ、安価なノートを求めていた客たちの血が、そこに流れたのだ。
現場の写真を撮っていると、私の目に一枚のメッセージボードが飛び込んできた。カメラの画角に収めるには数歩下がらないといけないほど高いものだった。
「あなた(容疑者)は私たちのことを知ることもなく、ヘイト(憎悪)を選んだ。それでも私たちの愛は、ずっとあなたとともにあります」
多くのエルパソ市民は怒っていなかった。彼らは水や食糧を配って回り、涙を流す人に肩を寄せた。花輪をぎゅっと抱えた高齢の女性は、それをどこに置くか探しながら、現場に向かって頭を下げた。
私はといえば、暑さと空腹に襲われ、献花場所から10メートルほどのところにある飲食店「フーターズ」に入った。そこは、報道陣のたまり場になっていた。
無音のテレビは事件についてのニュースを流す。露出の多いオレンジ色のタンクトップ姿の接客係の女性は笑顔で客とハグをする。スピーカーからは、ビートルズの「グッド・デイ・サンシャイン」が聞こえた。
以前にも銃の乱射事件を取材したことがあった。でも、悲しみに包まれる現場からすぐの場所で食事をとったのはこれが初めてだった。骨なしチキンを食べ、プラスチックのストローを使ってコーラを飲んだ。
窓の外には、死者を弔う人たちの姿が見える。店のオーナーは警官や報道陣に水を配り、記事を書くためのワイファイを提供してくれた。私はなんだか居心地が悪かった。そして、自分が卑小な存在だと感じた。
私が思いをはせなかった唯一の人間は、容疑者だ。彼が書いたとみられる4枚に及ぶ「犯行声明」は、レンタカーの中で読んだ。車からは、事件後に被害にあった家族らの集合場所になっていた小学校が見えた。
声明はだらだらと長く、とりとめがなく、文体はぐちゃぐちゃだった。結局言いたいことは一つ、非白人が元々白人が多かった地域を「乗っ取る」という陰謀論「グレート・リプレースメント」だった。
日本人は米国が好きだ。特に南西部。グランドキャニオンにカウボーイ、サボテンにバーベキューもある。
休暇でエルパソにくる人がいれば、より良い人生を求めてやってくる人もいる。両手を広げて彼らを歓迎する米国人がいれば、彼らを殺してしまう米国人もいる。
これが、米国だ。
翌日、再び献花場所を訪れると、メッセージボードは増え、訪れる人も警官の数も多くなっていた。トランプ米大統領の支持者が「我々はトランプを愛している」と叫ぶ。彼女たちは「黙れ」とののしられ、現場から離された。
エルパソ市民のローザ・ギャラルドさん(48)は一人で、ガードレールのそばに立ち尽くしていた。
「犠牲者に申し訳ない。でも私は、同じ目にあいたくない。私には子どもがいる。若い子たちは、ヘイトやギャングにとりつかれている」。そう話す彼女の言葉は私にとって、まるで母が言っているかのように響いた。写真を撮っていいかと聞くと、彼女は娘を抱き寄せ、レンズに向かって笑みを浮かべた。
夕日が沈み、私はホテルに戻った。ひげをそるカミソリを買うのを忘れことに気づき、ホテルの向かい側にあるウォルマートを訪ねた。事件のあった店とは別の店だ。
店内では女性たちがスペイン語で、こっちに来なさい、静かにしなさいと子どもたちに言い聞かせている。それもまた、母の口ぶりと似ていた。
「1個買えばもう1個タダ」。まもなく再開する学校の用具が並べられた棚にはそんな宣伝文句が掲げられ、子どもの手を握る父親たちが通り過ぎていく。彼は、国境を越えて来たのだろうか。ウォルマートは衣服や文房具がメキシコ側よりも安いと聞いた。
カミソリを見つけるのは驚くほど難しく、あちこち見て回っているうちに、買い物客らは次々に出口の方へ向かっていた。レジに向かう彼らの買い物カゴは、ものであふれていた。
ここはメキシコと国境を接するエルパソだ。激辛のスナック菓子が多く陳列されている。ようやくカミソリを見つけた私は、一つをカゴに入れた。ノートはホテルに置いてきていた。
休業せざるをえなくなったウォルマートと同じ街にある別のウォルマートで買い物をしていることが、奇妙に感じた。客だけが行ったりきたりして、警官の姿はどこにも見えない。もし、誰かが事件の犯人のまねをしたら、さえぎるものはなにもない。
真新しい、真っ白な天井から注ぐ光が、献花場所にあったあの十字架を思い起こさせた。黒のマーカーで、被害者一人ひとりの名前がそこには書かれていた。
「あの」ウォルマートの悲劇に続き、「この」ウォルマートにも誰かが武器を持って入ってきたら、さらに多くの十字架が立ち、さらに多くの名前が書き加えられただろう。
それは、私の名前だったかもしれない。
(エディー・マルティネス、訳・藤原学思)