はあ。きょうも一日誰にも会わずに過ごしてしまった。いや、それどこか「おっぱい」「うんち」「おしっこ」「おちんちん」しか言わなかったんじゃないか?
2018年6月。史上初の米朝首脳会談が実現していたころ、私は東京都内の小さな産婦人科で次男(愛称:ルールー)を出産した。逆子が治らず、帝王切開で取り出されたルールーは、誕生直後からおっぱいをよく飲んだ。ところが、下腹部を横に13センチも切られた私は、傷口が痛くて痛くて、産後1週間以上まともに歩くことも話すことも笑うこともままならず、授乳するために体を起こすのでやっと。一日のほとんどを横になりながら、テレビで繰り返し流れている、アメリカのトランプ大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が笑顔で握手をしあう映像を、ぼーっと見ていた。
史上初の米朝首脳会談。いまごろ同僚は大忙しだろうなあ。私は、しばらくはまた、引きこもり生活に逆戻りかあ。
その前年、私は長男(愛称:シンシン)を出産していた。翌年春には職場復帰をする予定だったが、産後わずか半年あまりで妊娠発覚。シンシンを不妊治療の末に授かったことを考えると、第2子に恵まれるとは思ってもいなかったため、私も夫も素直に喜んだ。だが、実際産んでみると、「幸せ」の一言では済まされない壮絶な生活が待っていた。
シンシンとルール-は、年齢差1歳3カ月の「年子」だ。ルール-が生まれた時、シンシンはオムツも授乳も卒業しておらず、「ママ」すら言えなかった。当時のスマホの記録によると1人で転ばずに歩けた最長の距離は27歩。食事も、自分でスプーンは持ちたがるけど口に入れる前にひっくり返すし、あげくスプーンも投げ捨てる、なんてざらだ。弟が生まれたあとも赤ちゃん返りはしなかった。そもそも、シンシン自身まだまだ赤ちゃんだった。そこに新生児が1人加わったのだ。わたしの睡眠時間は3時間を切った。
夫は育児休業を1カ月取り、家事をすべてこなしてくれた。仕事に復帰したあとも、出勤前に私の一日のおかずを作り置きし、ご飯を炊き、洗濯機を回していった。「ワンオペ」しているママに比べたら、私なんて遥かに恵まれていただろうとは思うが、それでも、体力の減り具合はすさまじかった。
「赤ちゃんは泣くのが仕事」とはいっても、正直、実際にずーーっと泣くのを聞き続けるのは、魂を吸い取られるようなしんどさがあった。実際、我が家では年の近い赤ちゃん2人だから、常にどちらかは泣くかぐずるか、わーわーとわめいていた。「ママとしてまだまだだ」とか「何かがまだ足りていないんだろうか」と責められているようだった。2人を交互に抱っこしておさめようとするも、右手首は腱鞘炎、左腕は「テニス肘」になり、抱っこもままならなくなった。そうなると、抱っこのできない私に向かって「ママー」と寄ってくる我が子に対して、素直に「可愛い」と思えなくなってくるのだ。
当時の記憶はあまりないのだが、記録によると、私は産後すぐの居住区の健診時に提出したアンケートに、「心から笑えることが少なくなった」に○をつけ、子どもが可愛いと思えないことが「しょっちゅうある」にチェックを入れ、ママの気分のところは「泣きマーク」のアイコンを囲んでいたらしい。後日、それを心配した区の保健師から、電話と面会の希望がきて知った。
*次回は子連れ留学を決断した瞬間のお話をします。