1. HOME
  2. Learning
  3. レーサー志望の少年、豪州で会計士に パブで鍛えた英語

レーサー志望の少年、豪州で会計士に パブで鍛えた英語

バイリンガルの作り方~移民社会・豪州より~ 更新日: 公開日:
事務所のあるビルの共用スペースで、地元の経済紙をチェックする森田順平さん =ブリスベン、小暮哲夫撮影

オーストラリア第三の都市ブリスベン。その中心部の高層ビルに、森田順平さん(37)の小さなオフィスはある。公認会計士と移民行政書士として2016年に独立し、企業や個人の会計税務や、ビザの取得を支援している。当然ながら、顧客の委託を受けて行う当局との専門的なやりとりは、すべて英語だ。

人生を変えた鈴木亜久里さんの一言

森田さんが英語に興味を持ったのは、実家のある北海道旭川市で高校に入学するころだった。年上のいとこの影響で12歳の頃から始めたカートレースで、元FIドライバーの鈴木亜久里さんによるレーサー育成のプロジェクトの対象者7人に選ばれた。応募者が約1500人という狭き門だった。

「速く走れるだけではだめなんだ。レースの世界で戦っていくには英語ができないと」。そのとき、鈴木さんから聞いたこんな言葉が強い印象を残した。プロジェクトへの参加は1年間だけで、残念ながら期間の更新はできなかったが、地元の英会話学校に通い始めた。

平日の放課後、ネイティブの先生が相手の少人数のグループレッスンに行き、英語を話すのが好きになると、将来は英語を使う仕事をしたいと思い始めた。一方で、日本の大学に行こうとは思わなかった。地元の進学校、旭川東高校に通っていたが、「教室の後ろに大学の偏差値の表が貼ってあって、それを見て大学に行ける、行けないと、受験する大学を考えるのは、なんだかおかしい」と思ったからだ。そこで英語圏への留学を考えたとき、通訳を養成するコースがあったブリスベンにあるクイーンズランド大学に引かれた。父は公務員。だれも外国に行ったことがない家庭だったが、「当時はまだ、豪州の学費が安くて、東京で大学に行くのと費用は変わらないと説得した」という。

英語を学ぶきっかけになったカートレースを、豪州で再開。豪州選手権に参戦した森田順平さん=Pace Image 提供、2019年2月、豪東部イプスウィッチ

日本人の間なら得意だけれど

ブリスベンにやってきたのは高校卒業直後の01年3月。最初にクイーンズランド大学の付属語学学校に入った。大学進学を考える人向けのクラスで、「ぽんと入って、最初は大丈夫かなと。英語がそれなりにできる子しかいなかった。香港出身の子なんて小さいころから英語も話しているはずでしょうと」。学校での活動でこんなことをしますよ、という説明自体が聞き取れないこともたびたびあった。

3カ月学んだ後、ファウンデーションコースと呼ばれる大学の専門に進むための留学生向けの準備コースに入学した。高校のような内容だった。「何カ月かたったら、理解が進み始めた。先生ごとに話す癖があって、たぶん半分くらいしか聞きとれていないけれど、こんなことを言っているのだろう、とたぐり寄せる感じです」

ただ、「日本人の中にいたら話すのは得意だと思っていただけで、あの中にいたら物静かになってしまっていた」とも振り返る。

生活の拠点は当初、語学学校に紹介してもらったホームステイ先の家庭だった。両親と小さな子どもがいる家庭で、「気を遣ってくれて、ごはんを食べるときに少し話した。でも、週末にいつも面倒みてくれるわけでもない。英語の上達にはプラスになったと思うけれど、自分も自由に歩きたい年ごろで」。ほどなく、大学の掲示板にあるシェアハウスに移った。別の個室に住むシェアメートは中国人だった。

1年間の準備コースを終えて進んだのは、商学部だった。情報収集をすると、豪州で需要があって永住ビザが取りやすい職業としては通訳ではなく、会計士がいいのではないか、と考え始めたからだ。学部では講義のレベルは上がった。何より違うのは、英語がネイティブの地元の学生たちがいること。それまでと違って、外国人に合わせた英語ではない。「きつかったけれど楽しかった。ここから逆に落ちるところはないと思った」

自身も通ったクイーンズランド大学付属語学学校で日本人学生を前に話す森田順平さん=2015年1月、森田さん提供

「不真面目な学生」 行き先はパブ

学部生としての最初の半年は「がりがり勉強した」。そうしたら、いい成績がとれた。すると、授業にあまり出席しなくなった。

「出欠を取るチュートリアル(日本のゼミに相当)は行くけれど、普通の講義は、ほとんどいかなかった。講義の内容が事前に学内のイントラネットで公開されるので、『あー、この内容だったらわかるな』と。だから、あまりまじめな学生ではなかった」

授業に行かないとだめかなと思ったときでも、キャンパスでオーストラリア人の友達に会うと、「じゃあ、パブに行こうか」。日が暮れるころには酔っ払っていた、ということもよくあったという。豪州の大学にはパブがある。学外のパブに行くこともあった。友達ができた場所のひとつは、アニメなど日本の文化に興味がある人たちでつくるサークルだ。大学に日本からの留学生はあまりいなかったため、日本人が行くと歓迎された。

「パブって実は、語学を学ぶうえでいいところ。そもそも、ビールの頼み方がわからないと、飲めないわけで」。豪州の人たちは見ず知らずの人でも隣り合わせになったら、話しかけてくることが多い。「酔っ払っていることもあって、何を言っているかわからない。それを何とか聞き出そうと頑張って。別のグループと取っ組み合いのけんかになって、パブのセキュリティの人につまみ出されても、『あっちが悪いんだ』と言わないといけないですから」

そんな経験をパブで繰り返していると、「大学で聞いている英語って、こんなにわかりやすいんだ」と思えるようになったという。

ビジネス文書を添削される日々 

大学は無事卒業したが、就職には苦労した。豪州では、会計士事務所が新卒の採用をする場合、外国人ならば永住権を持っていることを条件にすることが多いという。大学の構内にあるアジア風焼きそば店でアルバイトして暮らした後で、大学生協の経理担当としての仕事を見つけたのは、卒業から半年たった05年10月。生協の傘下の店ごとの日報が上がってきて、帳簿を計算して、請求書を起こして……といった実務の経験を積んだ。

同時に、公認会計士の資格を取るための専門の通信コースを履修しながら、会計士事務所への就職の機会を探った。08年4月、ブリスベンから130キロほど離れたトゥ-ウンバという街の大学であった就職フェアに参加したとき、ブリスベンに本拠がある会計士事務所がブースを開いていた。履歴書を手に、自らのこれまでと希望を説明すると、翌日、「面接に来てほしい」と連絡がきて就職が決まった。

ブリスベンでは有力な会計士事務所のひとつで、70人ほどが働いていた。責任者の下に数人の若手会計士がいるチームで仕事を分担。上司が担当する顧客の仕事がふってくる。最初は対顧客というより、上司とのやりとりが中心になった。都市部だけでなく、内陸部の農家にも多くの顧客を持つ事務所で、いなかの癖のある英語を話す人たちが多かった。

「上司にメールを送っても3行くらいしか読まず、すぐに問い合わせの電話がかかってくる。いかに少ない文字数で情報量を詰め込むか。昔気質で短気で、長い文章を書くと嫌われる。顧客向けのビジネス文書を書くときにも、容赦なく添削されました」

「でも、『英語ができないので勘弁して』とは言えない。それは責任を持ってやってきた。ほかのオージーたちと同じように仕事をするのが給料をもらっている意味だと思ったので頑張れた」

自ら、新たなビジネスを提案もした。顧客から外国人従業員のビザの相談を受けることも多かったことから、そんなサービスを始めれば、「顧客に包括的なサービスを提供できるのではないか。自分が移民行政書士の資格を取ってやってみる」と掛け合うと、認められた。

同年代の事務所の仲間とは、やはりよくパブによく行ったという。大学時代にパブで鍛えた英語も「大学時代は20歳そこそこの子どもで、日本語で話しても高度な話ができないのと同じで、言い回しは稚拙だったろうと思います。仕事で使うちゃんとした話し方は、仕事をしないとできない。本当にこちらに根付いた言葉がすーっと頭に入ってきて、すーっと言えるようになったのは、働いてからだと思いますね」

公認会計士、移民行政書士として開いた事務所「グローバルハブ」で業務をする森田順平さん=ブリスベン、小暮哲夫撮影

きょうの仕事「日本語では言えない」

森田さんは16年2月に独立。会計税務とビザ支援の事務所「グローバルハブ」を開設した。会計士事務所で昇進できるかどうかは、「結局は、どれだけ自分の顧客を持っているか、になる。オージーには、ここで生まれ育ったコネクションがある。そこに自分の勝ち目がないのは明らかだった。頑張る方向を変えないと、単なる従業員で終わるなと」

上司の厚意で、日本人の顧客の一部を独立後も受け継ぐことを許してもらえた。13年4月に台湾系豪州人の女性と結婚。共働きで、その後に生まれた長男の育児がたいへんになっていたことも、独立を後押しした。開業すれば、これまでの職場での就業時間に必ずしもとらわれず、育児の時間も考えながら、柔軟に仕事ができるからだ。

法人と個人を合わせて100を超える顧客を抱える。専門的な知識が要求される顧客の税務関係やビザの申請のために、英語で書類を用意し、やりとりをする。「前の事務所で、税務署とは電話でもやりとも経験しているので問題はない。(ビザを担当する)移民当局は電話でやりとりすることは少ない。ただ、代わりに必要な文書をたくさん作って送っていますね」

インタビューの最後に、そんな話を英語で話してもらった。動画を見ていただくと、森田さんの英語のレベルの高さがよくわかっていただけると思う。

「英語は学問ではなく、あくまでコミュニケーションの手段。学校の科目に英語があったので、苦手意識を持っている人が多いのでは。うまくしゃべれない、英語ができないというのは、頭がいい、悪い、の問題ではなく、言葉に体が慣れていないだけ。こちらで生まれたオーストラリア人で、恵まれない家庭で教育を満足に受けられなかったとしても、英語は話せるでしょう」

「アップル、と英語で聞いて、日本語で訳したらりんご、そこで初めて赤い果物の絵が頭に浮かぶのが、日本でしっかり英語を勉強した人の頭だと思います。でも、頭に赤い果物が浮かんだら、アップルかリンゴか、二つのチャンネルがあって、このリンゴという言葉に戻す過程させ切ってしまえば、飲み込みが早いじゃないかと」

英語を英語のまま、日本語は日本語のまま、という二つの回路が頭の中にできたということだ。だから、日本語で今日、仕事で何をしたのと聞かれて日本語で答えるのが難しいという。「自分の中ではすべて英語で起きたことなのに、(頭の中で)翻訳機を稼働させることがよほど大変で」

森田さんは、今年に入って、自身の事務所とは別に、自動車関連の日系企業の現地法人の役員にも就任。新たな仕事にも取り組み始めた。また、英語を学ぶきっかけになったカートレースを最近、豪州で再開した。こちらも昔の技術を体が覚えており、豪州選手権にも出場した。クイーンズランド州南部の地方レースではポイントでトップを走っているという。

豪州で鍛えた英語で話す森田順平さん