『アマンダと僕』の舞台はパリ、そしてロンドン。パリで便利屋として働く青年ダヴィッド(ヴァンサン・ラコスト、25)は、ともに父子家庭で育ったシングルマザーの姉サンドリーヌ(オフェリア・コルブ、37)と、その幼い一人娘アマンダ(イゾール・ミュルトリエ)と助け合いながら暮らしていた。テニスの4大大会のひとつウィンブルドン選手権を3人で見に行こうと英国行きの切符を買ったサンドリーヌに、心躍らせるダヴィッドとアマンダ。そんな矢先、パリの公園で起きたテロで、サンドリーヌが帰らぬ人となる。母を失ったことを受け入れられないアマンダ。ダヴィッドも、突如として彼女の世話をすることになり戸惑いながら、姉の喪失に立ちすくむ。
ベネチア国際映画祭で、斬新な作品を集めたオリゾンティ部門のマジックランタン賞を受賞。昨年の東京国際映画祭ではコンペ部門の最高賞「東京グランプリ」と脚本賞に輝いた。
モチーフとなったのは、パリや郊外のコンサートホールやサッカー場など計6カ所で同時に起きたテロだ。130人の死者と300人以上の負傷者を出し、フランスそして世界に大きな衝撃を与えた。
アース監督はテロが起きた時、「ちょうどパリのレストランで、前作の脚本家と食事をしていた。レストランや自宅のテレビで何度も何度もテロの場面が流れるのを見て、非現実的な気持ちになった」と言う。テロの発生現場のひとつ11区は、パリで生まれ育ったアース監督も住んだことがあり、よく知る地域だった。「私が個人的によく知っている場所が危険に脅かされてしまったことで、不思議な気持ちになった。また、その後の報道などで詳細を知るにつれ、さまざまな人たちのさまざまなストーリーがあると感じた」とアース監督は振り返る。
そのうえで、「この傷ついた街パリ、そして美しさや脆さについて何かつかみ取りたい、とらえたいと考えた」。
アース監督は今作の製作にあたって、被害者の証言などを数多く読み、行政の被害者支援団体の人たちにも話を聞いた。そのうえで、テロの現場でもあった11区や、12区を選んで撮影を進めたという。11区と12区が「いろんな階層の人が住んでいる場所」だったのも理由だ。「パリは、学生が多い地域やブルジョアが多い地区、あるいは中国人街という風に分かれているが、そうした何らかの意味を帯びる地域は映画に取り込みたくなかった。いろんな階層や建築物が混じり合っている地域で撮影したいと考えた結果が11区や12区でもあった。残念ながら、いろんな階層の人たちが住む地域はパリでどんどん少なくなっている。階層的に高くない人たちは、どんどんパリの外へ外へと押しやられているから」
テロで世界が悲しみにくれる一方、パリではテロの恐怖による抑圧に負けまいとあえて、いつものように深夜までカフェでくつろぐ動きも出た。実際、どんなに多くの命が失われようと、残された人たちは明日を生きなければならない、というのも現実だ。
アース監督は今のパリについて、「テロから時間が経ち、人々の記憶もだんだん薄れていっていると思う。次にまたテロが起きたりするまでのことだと思うのだが」と言う。ただ、「もちろん傷痕は残っている。人が集まる場所には金属探知機があり、必ずかばんの中身を調べられ、軍人が軍服姿で歩く。テロの現場には、それを物語る碑がある。それでも人生は相変わらず以前と同じように続いている、そういういろんなことが混じり合った感じだと思う」。
そうしてアース監督は続けた。「悲劇が起きても、いずれ光が射す希望もやってくる。人には立ち直る力もある。私はテロの被害者でもなく、テロで親族を亡くしたわけでもない。でも、それぞれの人たちがそれぞれのレベルでテロの影響を受けている。できるだけ平穏を取り戻して生き続けることが、必要だと思う」
私はシネマニア・リポートの連載に際し、直近のテロを扱う映画への世間の反応についてさまざま考えさせられてきた。例えば2001年9月の米同時多発テロは、発生直後こそテロそのものや被害者の悲痛を描写する映画がかなり製作・公開され、多くの観客をひきつけてきたのが、ここ数年は賛否が分かれる状態に。2017年公開の米映画『ナインイレヴン 運命を分けた日』の監督インタビューでも、その難しさを考えた。
その要因のひとつが、悲劇を忘れたい人々も増えてくる中で、トラウマを呼び起こす場面をいかに映画に取り込むか、取り込まないか、なのだろう。今回の『アマンダと僕』は、その点においても絶妙だ。
今作で設定したテロの発生現場は、パリのとある公園。アース監督に聞くと、パリ東端の12区にあるヴァンセンヌの森の公園で撮影したそうだ。つまり、2015年のテロを契機とした映画ながら、現場としてはまったく別のものとなっている。「テロの現場があまりにもリアルだと、架空の被害者を作り上げることにもなり、不適切だと思った。それに、誰もが楽しみやいろんなことを分かち合う公園でテロが起きたというのは、信じてもらいやすい。物語で出てきそうな抽象的な場所でもある。だから公園にした」とアース監督は解説する。
劇中、ブルカを着た女性が路上で悪く言われる様子も出てくる。ただ、それは物語のあくまで後景だ。「私は今のパリを見せたい、とらえたいと思ったが、ブルカを着た人たちの話によって映画が吸収されないように、また観客をうんざりさせないようにしたかった、アマンダの悲劇をあくまでプリズムにして、後景で現在のパリを証言したかった。絵画でいうと印象派的な形で、『これが2015年のパリだ』というつもりで描いた」
今作が多くの人の感動を呼んだのは、タイトルにもなっているアマンダの演技も大きい。演じるイゾール・ミュルトリエは、今作以前は演技の経験がなかった。製作に際し、アース監督が子役募集のビラを作ってパリで配るうち、体操教室から出てきた彼女に声をかけ、オーディションに招いた結果だという。
アース監督は言う。「映画に何度も出ている子役は、両親に言われて演技している場合が多い。本当に本当らしく見える自然さが大切だと思い、私は街へ出た。7~8歳ぐらいの子どもは、子どもっぽさを持つとともに、大人の言うことを理解する成熟した部分も少しある。そうした両面を兼ね備えていた彼女に声をかけた」
アース監督自身、小さな子ども2人の父だ。「そうした自分の生活からもヒントを得ている」という。「今作では、喪失感や悲しみをめぐって、大きな子どもが小さな子どもに付き添う。でも実際には小さな子どもも大きな子どもを助けたりもする。そうした全ての要因が凝集して、この映画を作る必要性を感じた。自分が映画を撮ったというよりは、映画を私が撮らせてもらう――そんな気持ちで今作ができたんです」