ベトナムに来たとき4歳だったポコは、この夏で7歳になった。学校で仲良くなったお友だちが、家族の転勤でインドや中国、米国へ行ってしまうことになり、どこかさびしい夏。だが、お友だちとたっぷり遊んで、さようならをしたポコは、「ジャパンに行くのが楽しみなんだ」とケロリとし、いそいそと一時帰国の準備を始めた。私の夏休みは少し先なので、空港で見送る。ポコはおとっつあんと荷物検査場に消えたかと思うと、また戻り、「おかあさんバイバイ!」と走っていった。
これまで大きな問題もなくハノイで暮らしてきたが、知り合いが増えるにつれ、悩みながら海外で生活する日本人もたくさんいることに気がつくようになった。
例えば、もし子どもに障害があったら、私の日常はどうだったろうか。ポコの学校を見つけることだけでももっと苦労しただろう。実際にそういう思いをしている人がたくさんいる。36歳の日本人女性だ。
彼女がベトナム南部ホーチミンに引っ越してきたのは今年3月末のことだ。日本では夫と長男、次男の4人で東京に暮らし、正社員の技術者として、夫と同じ会社にフルタイムで勤務していた。
海外で働くことをずっと夢見ていた夫のベトナム赴任が決まり、昨年4月にまず夫がホーチミンでの生活をスタート。今年4月から会社に休職制度ができたのを機に女性は休職し、家族そろってホーチミンで暮らすことになった。「一人だと休日はくたびれてしまって、子どもに自転車の乗り方すら教えてあげられなかった」と彼女は振り返る。なにより、お父さんと一緒に暮らせることを子どもたちは喜んだ。
ただ、問題があった。ベトナムで長男が通う学校が見つからないのだ。
長男は7歳。ダウン症で、日本では特別支援学校に通っていた。当初、ホーチミン市内にある日本人学校に入学できるのだろうと考えていた。だが昨年11月、直接日本人学校を訪ねると、学校側の回答は、「費用も教員もおらず、日本のような教育支援はできない」という内容だった。
日本では学校教育法の改正で、従来は盲学校や養護学校とよばれた学校を特別支援学校に一本化し、さらに、学習障害(LD)などの発達障害をふくめ、障害のある子どもがいる場合は、幼稚園から高校まですべての学校で特別支援教育をすることが定められた。
通常の学級に支援員をつけたり、通常の学級で授業をうけながら週に数回特別な指導をする「通級」クラスや、障害に応じた特別支援学級をもうけたりするなど、それぞれの子どもに適した支援をしようという取り組みだ。
ただ、海外で暮らす日本人の子どもには必ずしも十分なサポートがあるわけではない。アジアの日本人学校の場合、少なくとも中国・上海、バンコク、シンガポール、香港には何らかの支援学級があるが、ホーチミン、ハノイの日本人学校には現在のところない。
特別支援学校に通っていた長男が入学することについて、彼女らは、事前に現地の日本人から難しいだろうという話を聞いていた。それでも、日本人学校に足を運んだのは、「ダウン症の子どもと一緒にここで暮らそうとしている家族がいることを、学校に知ってもらう必要がある」と考えたからだ。
ホーチミンのつてを頼って学校を探し、紹介されたのが、教会が運営するベトナムの私立学校の障害児クラスだった。通うのは主にベトナム人の子どもで、外国人は長男ひとり。しかも多くの先生はベトナム語しか通じない。
だが、たまたま、簡単な日本語ができるベトナム人のフイン・ティ・タイン・ビンさん(64)が週1回、子どもたちにヨガを教えに来ていることがわかった。ビンさんはかつて、ホーチミン市の障害児教育を担当する部署で働いていた経験がある。
長男の学習レベルや課題などについて担当の先生から話を聞き、母親に伝える、橋渡し役をビンさんがしてくれることになった。入学して数週間、長男は教室の隅にじっと座って様子を見ていたが、先生たちが声をかけ、次第にリラックスして遊ぶようになったという。
私はこの6月、ホーチミンの学校を訪ね、彼女の長男の様子を見せてもらった。
「これはなあに、ココナツだね。これは?パパイヤ」
担任のキム・ガー先生(62)がベトナム語で話しながら、南国の果物の絵が描かれたおもちゃを長男に見せる。果物も文字もベトナムのものだが、長男は絵を見つめて、きちんとコミュニケーションをとった。
先生は「トイレに行きたい」「この色の椅子に座りたい」といった意味のイラストを使って、言葉での意思表示が難しい子どもたちとやりとりをする。笑顔でボール投げをしていた長男は、「タンビエット(さようなら)」「モッ、ハイ、バー(1、2、3)」といったベトナム語も覚えた。日本語が通じない環境で、彼は頑張っていた。
7月から長男は、6-10歳児の入る一つ上のクラスで、単語や数字などの勉強も少しずつ始めるという。「TAP VIET(書く)」「Khoai mo(いも)」といったベトナム語とイラストが書かれたカードを、先生が見せてくれた。これが、日本語でできたらいいのに、とくやしく思った。
長男をみてくれる学校が見つかったのは喜ばしいことだった。ただ、学校は午前7時半から10時半までと短時間だ。ご飯の前に手を洗い、「いただきます」を言う、といった日本の習慣を続けられたほうが、いずれ日本に帰国した時に、長男が混乱することも少ないだろう。ビン先生は、「日本人学校が受け入れてくれれば一番いいですね」と話した。
「障害のあるお子さんにとって一番よい学習環境は日本にある」
そう人に言われて、子どものために帰国すべきだろうかと悩む人は多いという。日本の環境のほうが充実していることなど、女性にもわかっている。「それでも、家族と一緒に暮らしたい。同じ境遇の人がすべて海外赴任をあきらめなければならなくなったら、可能性のある人の志やキャリアをつぶすことになる。日本人がどんどん海外で働く時代に、それでいいのでしょうか」。母子が投げかける問いだ。
学校問題に苦労する家族、ほかにも
海外赴任に際し、子どもの学校という難問にぶつかった人はハノイにもいる。自閉症の長男(9)とともに2年前にハノイに赴任した家族も、様々な学校に入学の可能性をあたった。ハノイの日本人学校には、「特別な支援が必要な子どもは受け入れていない」と断られた。
複数のインターナショナルスクールは、自費で支援要員をつければ入学できる可能性があった。だが、家族の英語力に不安があり断念。日本語ならば幼稚園でもと問い合わせをし、唯一前向きに検討してくれたのが、日系のなかよし幼稚園長の大庭公治さんだった。
現地で雇った付き添いの人とともに、長男は年下の園児と日中の時間を過ごした。家族はすでに日本に帰国したが、日々を振り返り、「どのような選択肢があるか一緒に考えてくれたり、相談したりできる機関があったら助けられたと思います。日本で自閉症の専門機関などにも問い合わせをしましたが、『あまりそういった事例はない』との回答でした」と話す。
海外にある日本人学校は公立校ではなく、私立校だ。ホーチミンの日本人学校の場合、48人いる教員は半分ほどが文科省から派遣され、半分ほどは海外で活動する企業・団体が設立した公益財団法人海外子女教育振興財団の支援を得た直接採用だ。
ホーチミン日本人学校の生徒数は623人。日越の活発な経済交流を反映して、生徒数はぐんぐん増えている。藤尾治仁校長は、「特別支援教育の先生を採用したいが、文科省や財団に問い合わせても、能力があり海外での仕事を希望する人材が見つかるかどうかはわからない。費用をどうまかなうかも課題です」と話す。
ホーチミンでは、発達障害のある子どもや保護者らでつくる「こどもの未来を拓く会」が、日本人学校に通級指導室や支援要員をもうけるようもとめる要望書を2018年7月に提出した。
教員を新たに1人採用するには数百万円のお金がかかるが、藤尾校長は、今年はなんとか、特別支援を担当する先生を探して採用し、支援が必要な子どもに学習室で指導する態勢を作りたいという。
480人が学ぶハノイ日本人学校の茅根浩一校長は、今年から入学希望の児童生徒を面接し、「個別の問いかけや助言を聞き入れ、前向きに活動しようとする姿勢がある」ことなどを確認しており、以前よりも「入学しやすくなったケースもある」と話す。障害をもった子どもに対応することは、「世界中の日本人学校の課題だと考えている」という。
外務省の統計によると、2017年10月現在、ベトナムで暮らす邦人数は世界で16位の1万7266人。中国の12万4162人、タイの7万2754人、シンガポールの3万6423人と比べれば少ないが、ベトナムは前年比6.9%と、日本人人口が急増している。
日本人学校などで、障害のある子どもへの対応を早急に検討すべき段階にあるといえる。
ベトナムに進出する企業や日本人コミュニティーがお金や知恵を出し合い、状況を変えていければ一番いい。私立とはいえ、政府とも関わりのある日本人学校がどんな子どもにも居場所がある教室をつくることがもしできたら、ベトナムの企業で働く日本人社員の家族も助かることがあるのではないだろうか。
グローバル化の時代というのなら、日本政府も海外で働く意欲のある教員を育て、呼びかけ、海外でも「誰でも学べる学校」をつくるために、もっと取り組むべきだと思う。
このお話は次回に続きます。