ふたりの映画監督とは、伍嘉良(ン・ガーリョン)さん(37)と葉嘉麟(イエ・カールン)さん(25)。伍さんは、中国の影響力が強まっていく香港の将来像を描いたオムニバス映画『十年』をてがけた一人だ。民主的な選挙の実現を求めて若者たちが香港島中心部を占拠した「雨傘運動」が挫折した翌年の2015年。わずか1館の上映から始めて異例のヒットとなり、16年の香港電影金像奨の作品賞を受賞した。葉さんは、伍さんがプロデューサーを務めるネット動画制作会社「一丁目」に作品を提供した。今回の条例改正を危ぶむ短編三部作のひとつ『砧板上(まな板の上)』である。
6月16日午後3時半、デモの出発点である香港島のビクトリア公園そばで待ち合わせた。ふたりとも黒いTシャツ姿である。SNSを通じて、条例改正に反対の意思を示す黒い服での参加が呼びかけられていたからだ。私も地元の知人に勧められて、空港のZARAで買った黒いシャツとパンツに着替えて出かけた。主催者は民主派団体「民間人権陣線(民陣)」。ルートは、香港島きっての繁華街である銅鑼湾から、立法会(議会)や香港政府本部がある金鐘にいたる約3キロ。デモのコースの定番だ。英国植民地時代の1904年に運行を始めた香港の顔、トラムが走る目抜き通りである。このあたりはデモを控えて午後2時から運休していた。
6月9日、そして12日の「百万人」デモを受けて、香港政府は15日に条例の改正の審議を先送りする意向を示していた。ビジネスへの影響を懸念する経済界からも批判の声が上がった結果と分析された。ある程度の「譲歩」を得て、デモ参加者は減るとの見立てもあったが、むしろ膨れあがっていた。
1993年生まれの葉さんは言う。「条例改正は延期じゃなくて撤回すべきだ。デモを暴徒呼ばわりしたことも撤回し、暴力をふるった警察を処分し、拘束されている人々を釈放しなければならない。これらに香港政府はまるで答えていない」。12日のデモに対して、警察が催涙スプレーや、催涙弾、ビーンバック弾という強硬な手段で強制排除したことへの反発が広がっているいう。林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官の辞任を求める声も強まっている。
「香港人が受け入れられる最低線を大きく踏み越えてしまった。このままではデモする自由すら消えてしまうのではないかという危機感から大勢が街に出ている。初めての参加者も少なくないはずです」
『まな板の上』では、街の精肉店の主人が隣の店主とのいざこざをきっかけに捕らえられ、大陸の警察へ送られる。香港へ戻す条件として、中国国営放送CCTVのカメラの前で意に沿わない「自白」を強いられる。銅鑼湾書店事件を思い出す。中国共産党に不都合な本の出版を計画していた店主らが失踪し、中国当局に拘束されていた事件だ。釈放の条件としてカメラの前で偽の自白を読み上げさせられたことが明らかになっている。この実話を参考にし、わずか1カ月ほどで制作したという。約15分の作品ながら、その「リアル」が反響を呼んでいる。
「とにかく条例改正の議論に間に合わせなければと急ぎました。内容が内容だけに、出演を断る俳優もいましたが」。巨大な中国市場への配慮から、香港政府や中国共産党に批判的なテーマの作品とは距離を置く映画人がいるそうだ。
『十年』もそうだった。伍さんは振り返る。「私は大陸の映画市場を意識していないので問題ないのですが、香港での制作に大陸の意向を忖度した自己規制が広がっている」。自由は内側からも切り崩されている。
オムニバス5作品のうち、伍さんの『地元産の卵』は香港らしさを否定されるとともに、子どものころからたたき込まれた諜報活動で言論の自由が狭まる危機を描いた作品だ。ほかの作品のテーマも、香港人が日常使う広東語が中国の共通語である北京語に押されていくなかでの世代間の断絶、中国共産党から逃れられない香港政治の舞台裏、英国総領事館前で大陸への抵抗から焼身自殺を図った若者をめぐる物語……。十年後とは思えない現実感が迫る。
「十年じゃなくて、今年だね、という声をきく。笑えない悲しみを感じます。映画を通じて、香港人にとって自らの将来を考える討論のプラットフォームをつくりたかった。とにかく自分の頭で考える。遅すぎることはない。そのメッセージは今も変わりません」と伍さん。デモの前夜、立法会の近くの商業施設の工事用足場に上り、抗議の垂れ幕をかかげていた男性が転落し、亡くなった。現場はデモのルートでもある。彼の死は「義憤にかられた自殺のようなもの」とも受け止められ、『十年』の「焼身自殺」の場面を思い出した人もいる。彼に手向ける白い花を手にして歩く人もいた。
映画を早送りするように、時が流れている。
1つの国の中で二つの制度を機能させる「一国二制度」を約束して、香港は1997年に英国から中国に返還された。ゆっくりと進んでいた「中国化」が近年、中国の国力の増大によって加速度がついた。伍さんは言う。「英国の統治下で完全な民主主義を享受していたなんて思っていません。そんなことはわかったうえで、これは約束と違うだろう、と。2008年の北京五輪の時点では香港人は中国チームを応援してたんですよ。だが、大陸は自らの優勢を利用して香港の自由を制御し始めたので、香港人の間で反感と恐怖が強まっているのです。今回のデモに対する外国からの注目度が上がっているとすれば、中国からうける脅威を感じる人々が増えているからでしょう。その意味で、香港は世界の最前線かもしれません」
デモの先頭は、公園に入りきれないほどの人が押し寄せたため予定を20分早めて午後2時40分ごろに出発していた。私たちが歩き始めたのは午後5時ごろ。葉さんの中高校時代の同級生、呉致寧(ン・チーニン)さん、フォンバオ(ニックネーム)さんも一緒だ。
人がぎゅうぎゅうで公園からトラムの駅がある大通りに出るまでの数百メートルに1時間以上かかった。インドネシアから香港にお手伝いさんとして働きにきている女性たちも、路上に立っている。日曜日にはいつも公園に集まってくつろいでいる人たちだ。イスラム教で女性が髪の毛を隠す布であるヘジャブ姿で広東語で支援を表明し、デモ隊から拍手が起きた。当然のことながら、デモはシュプレヒコールも周囲の会話も広東語。私が学んだ中国語は「北京語」なので何を話しているか理解できない。伍さんらに通訳してもらいながら歩いた。私たちの会話は英語。デモの現場で北京語を使うことははばかられる気分だったのだ。
ようやく通りに出ると、トラムの軌道が見えないほど、路上を人が埋め尽くしている。ベビーカーを押す人、お年寄り、家族連れ。若者とは限らない。肌の色もさまざまだ。「朝になってもたどり着かないのではないか」と思っていたら、わきの道も開放され、少しずつ流れ始めた。デモ隊を仕切るリーダーらしき人は見当たらない。「一人一人が自分の思いで歩けばいい。指揮官はいなくていい。小さなグループがたくさん集まって大きな流れになる。なにより、こうした過程が重要だと考えています。わからないじゃないですか。人々が動くことで作用しあって、今後何が起きるかは」。伍さんが説明するように、デモは気ままで穏やかな空気が流れていた。知人友人とおしゃべりしながら、ゆるゆると歩き、ときどき気が向いたように声をあげ、また歩く。大陸寄りの報道を続ける地元メディア「大公報」の看板の前ではブーイングがおきた。私の周囲では、キャリーラム長官の辞任を求める声がもっとも強い調子で響いていた。100万人超、130万人超、150万人超……。参加者の人数の情報が流れると、歓声があがる。
しばらくして、デモに参加している知人に会う約束がある伍さんと別れた。
抗議中の男性が転落死した現場の近くに来た。死を悼むたくさんの白い花が供えられ、黒い服の人々が手をあわせている。歌声が聞こえてきた。賛美歌「Sing Hallelujiah to the Lord」。キリスト教徒のグループが政府庁舎前で歌って祈りを捧げている。今回のデモのテーマソングのようにもなっている。
午後10時半。トラムなら20分ほどの距離を5時間半かけて歩いた。政府本部前には、大勢が座りこんでいた。マスクをしている人たちもいる。
「前線にいる人たちは、警察とぶつかる危険性もあるし、顔を特定されないほうがいいからマスクをしている」。呉さんが教えてくれた。ともに歩くと、自分の周りがすべてである。先頭にいる人々の様子はわからない。全体像をつかむなら、刻々と投稿されるSNSを現地にくわしい専門家とくまなく追うほうが得策だろう。「緊張」の最前線を取材するなら、目的地でカメラを構えて立つだろう。
私は「空気」を知りたかった。とくに後ろを歩く人々の表情を見たかった。
流れに身を任せてみて感じたことがある。デモの指揮官や核心となる「へそ」は重要だが、「後ろ」のほうをぞろぞろ行く人もとても大事だ。それに、正直言うと、そもそもこのデモの「へそ」はどこにあるのか、私にはよくわからない。ただ、普通の人が自らの意思で自らの時間を捧げるからこそ、権力者には怖い。「200万人」という黒い流れが道路を埋める航空写真は、為政者には恐怖を、黒い点に過ぎない参加者ひとりひとりには勇気を与える。小さな点ながら思いを共有できる相手がこれほど存在するのか、と。そして、後ろのふくらみこそが力である。抗議が長引けば前線は先鋭化し、後方は躊躇する。すべての抗議活動が抱える壁を、越えていく香港を見たい。
夜が更けたせいか、目的地でデモの余韻を味わっているのは若者がほとんどだ。香港政府に対して憤る声は上がるが悲壮感は感じられない。楽しそうに語らう小さな輪があちこちにできている。
葉さんたちが、一時間待ちのマクドナルドで遅い夕食を調達してくれた。立ちっぱなしのせいか足はむくみ、おなかはぺこぺこだ。チーズバーガー+チキンナゲット+フライドポテト+コーラのセット46香港ドル(約650円)をおごってくれた。
海が見える芝生で一緒に食べながら、話をきいた。
葉さんの友人である呉さんが初めてデモに参加したのは9歳のとき。両親に連れられて出かけた。政府批判を取り締まる国家保安立法に反対し、撤回させた「50万人」デモだった。両親は今回もデモに参加している。いっぽう、葉さんともう一人の友人フォンバオさん両親は「親中」。しかし、1993年生まれの二人は「香港人」として中国大陸に向き合う。
デモにも慣れている。大学時代に「愛国心」を育てようと中国が進めていた「国民教育科」の導入をめぐる反対運動に参加し、「雨傘運動」へと続いた。「自分たちの次の世代のためにも踏ん張る必要がある」と彼らは言う。香港人はある程度の自治はあるが、その範囲は限られる。香港政府の「ボス」となった中国大陸を選挙で動かすことはできない。だからこそ、香港の人々は街に出る。自らの声を響かせる数少ない手段だからだ。民主主義は「選挙」の枠外にも力を持って存在することを実感する。
芝生に設けられた大きなスクリーンで葉さんが監督した映画『まな板の上』が上映されている。彼ら同級生3人組と、地下鉄の終電1時に間に合うように現場を離れた。
北京特派員時代に取材した反日デモを思い出す。2005年、12年だ。とりわけ12年は典型的な動員型で決められたコースを行進していた。日本大使館前で取材したが、敷地内の日の丸をめがけて三角コーン、ペットボトルからインクやトマトまで投げつける暴力的なデモだった。ほかの都市では日本車が壊され、日系の百貨店が焼き打ちにあった。香港のデモとはあまりに違いすぎる。その後、中国ではさらに集会の自由が失われている。
デモは政治意思の重要な表現であり、行使の手段である。ここまで制度も意識も違ううちは、「一国二制度」しかない。
翌日、デモで歩いたコースをトラムに乗ってみた。蒸し暑いが冷房はない。半分開けられた窓から小雨が降り込み、硬い木製の椅子をぬらす。転落事故の現場近くでは供えられた花が丁寧に整頓され、飾られていた。この日もまた、白い花を持って訪れる人の姿があった。「200万人デモ」は香港政府を動かし、条例改正は事実上、断念せざるをえなくなった。キャリーラム長官は市民に「対立をもたらした」と謝った。それでも、抗議の声は続く。香港政府が答えていない問いがたくさんあるからだ。何よりも、黙っていれば浸食してくる力に抗うために声をあげ続ける。
トラムは平常運転に戻った。ティンティンと警笛を鳴らして雑踏を抜けてく。前を行くのは、大陸の白酒の有名ブランドの広告でラッピングされた車両である。欧米の高級ブランドのほか、ヤクルトや資生堂の日焼け止め、長崎と香港を結ぶ航空路線など日本にかかわる広告の車両が通り過ぎる。
デモ隊に線路をゆずり、鉄輪を休める日が、またすぐに来る。それが、香港の生活であり、日常だ。21日から22日未明にかけて、若者を中心に数万人が警察本部を取り囲んだ。
香港が英国から中国へ返還された記念日にあたる7月1日にも、例年通りデモが予定されている。