昨年夏、鎌倉で開かれた日英21世紀委員会に出席したときのことだ。日英関係に詳しい両国の専門家を前に、現代日本の政治について報告する機会があった。様々なテーマの中で、平成天皇の退位と改元の話に、イギリス側が高い関心を示した。
あるイギリス側参加者が後から説明するには、「高齢のエリザベス女王がもし逝去されたら、だれがイギリスをまとめるのか。ブレグジット問題で社会が分断される中、国家的危機を迎えかねないという危機感がある」というのだ。
なるほど、日本の天皇のように女王は現代のイギリスにおける国民統合の象徴なのか。
だが、待てよ。
昔、まったく違う話を読んだ覚えがある。
古い資料をごそごそ探していたら、25年前の雑誌のバックナンバーが出てきた。
イギリスの王冠を大写しにしたカバーに、「時代遅れの理念」とタイトルがついている。この表紙を最初に見たときは、腰を抜かした。過激とも思える君主制不要論を主張したのが、イギリスのエスタブリッシュメント(支配エリート)の間で広く読まれている、歴史ある雑誌「エコノミスト」(1994年10月22日号)だったからである。
当時は、チャールズ皇太子とダイアナ妃の不仲が公然の事実となり、そのほかの王室スキャンダルも噴出していた。各種の世論調査では、「50年後もイギリスに君主制は存在するか」という問いに、「存在する」と答える人は、35%から50%に過ぎなかった。エリザベス女王の夫君エディンバラ公フィリップ殿下が新聞のインタビューで、立憲君主制を改めて共和国になるということも選択肢だと認め、「君主制は国民が望む限りしか続かない」と述べるほどだった。
そういう時代背景のもと、エコノミスト誌は、以下のように断じたのである。
チャールズ皇太子が将来の国王にふさわしいのかという議論が出ているが、これは間違った問いである。正しい問いは、王制は現代デモクラシーにとってふさわしい構成要素なのか、である。我々は、君主制の時代はもはや去ったと考える。廃止できればそれがベストだろうが、それでも君主制廃止に反対するのは、君主制を廃止するための労を惜しむからである。イギリスには、ほかに取り組むべき切迫した問題が存在する。
今読み返しても、そのドライな論理には舌を巻く。
その後、イギリス王室はなんとか危機を脱出した。チャールズ皇太子とダイアナ妃の離婚、そして同妃の不慮の事故を乗り越え、ウィリアム王子とハリー王子の結婚で国民は沸き立ち、王室は再び国民の信を取り戻したように見える。だが、驚くべきは、この四半世紀にあらわれた国民感情の振幅であろう。
むろん、イギリスと日本では、歴史も違えば、国民感情にも違いがある。同じことが日本で簡単に起こるとは思えない。だが、民主主義においては、君主制は国民の合意と支持なしには安定しないという現実がここにある。伝統主義者が願うように、君主制は権威のベールの中に閉じこもるわけにはいかないのだ。
そもそも民主主義において、世襲の特権を持つ君主制が維持されるのはなぜなのだろうか。イギリスや日本で語られてきた正当化の根拠は、おおむね、「権力」とは別に「権威」をもつ存在があったほうが、社会が安定するという論だった。政治が党派に分かれて激しく争っても、国民全体から敬愛される存在があれば、国民のまとまりが守られる、という考えだ。
ふりかえってみると、30年の在位の間、災害地を訪れ、内外の慰霊の旅を続けた平成天皇を支えていたのも、この国民統合の象徴としての責任感だったのだろう。それは確かに、尋常ならざる努力の結果であり、国民とともにあろうとする天皇の姿勢が、国民の天皇制への支持を高めたことは間違いない。だが、同時に、象徴天皇のあるべき姿のハードルを上げてしまったことも否めないだろう。
これは議論のための議論で、あえて問うのだが、もし遠い将来に、その任を果たせない、あるいは、ふさわしくない天皇が現れてきたときはどうするのだろうか。すべてを天皇個人の努力に委ねるということで、いいのだろうか。
たしかに、君主制は社会安定機能を果たす場合がある。だが、いかなる場合にそれが可能なのか。また、その機能を保障することが、現在の世襲制の仕組みの中で可能なのか。
ここにはあらかじめ準備された答えはない。
具体的な状況の中でその都度、国民が考え、天皇も考え、試行錯誤していくしか道はない。
おそらく、令和の天皇制も様々な課題に直面するだろう。
民主主義と君主制は、たえずトライアルを続ける運命にある。