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9歳で王位を追われた元国王、担がれて首相に ブルガリアの元君主、数奇な人生

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ブルガリアの元国王にして元首相、シメオン2世=国末憲人撮影

■6歳で即位

ブルガリア王家は、英王家に直接つながる名家。本来なら恵まれた環境の下で帝王学を学ぶはずだった。「でも、時が来るのは早すぎた」。1943年に父ボリス3世が急死。シメオンはわずか6歳で即位した。「子どもの目にショックだったのは、周囲の人が昨日まで父に対して取った態度を突然、自分に対して取るようになったことです」

ソフィア郊外の宮殿=国末憲人撮影

2次大戦末期、ソ連の支配下に入ったブルガリアは、46年に国民投票で王制を廃止し、人民共和国に移行。シメオンは9歳で退位を強いられた。

「ソ連軍が入ってきて、親戚や政治家たちが次々と処刑された。それを知らされた時の記憶は決して消えません」

以後ブルガリアは共産圏に。シメオンはエジプトを経てスペインに亡命し、成長して実業界で活躍した。

「私自身のみならず、私の子孫も、もう二度とブルガリアの地を踏むことはないと覚悟していました」

シメオン2世ことシメオン・サクスコブルグゴツキ=2018年11月7日、ソフィア郊外、国末憲人撮影

そのままなら、豊かで静かな暮らしが続いただろう。その人生を数奇なものにしたのは、祖国に帰り、しかも共和制国家の首相を務めることになったからだ。

■遅れた民主化、「救世主」と期待

89年、東西ドイツを分けていたベルリンの壁が崩壊し、東欧に民主化の波が訪れた。ブルガリアでの改革は遅れ、インフレと短命政権に疲れた国民は96年、半世紀ぶりに帰国したシメオンを熱狂的に迎えた。「彼は、国民を統合する新たな指導者、開かれた欧州を体現する救世主と映ったのです」と、ジャーナリストのトマ・トモフ(76)は振り返る。シメオンへの期待が高まり、支援政党「シメオン2世国民運動」が発足。2001年の総選挙で圧勝した。担がれたシメオンは、迷った末に首相に就任した。元国王が共和制の政府を率いる前代未聞の事態だ。

彼の格調高い演説や洗練された身のこなしは尊敬を集めた。05年までの任期中、経済の立て直しを図り、07年の欧州連合(EU)加盟の準備を整えた。一方で「ブルガリアには問題が多すぎた。すべて解決するなんて誰にもできなかった」。生活の抜本的な改善を期待した市民の意識とのずれもあらわになった。ソフィア大学元教授の歴史学者アンドレイ・パンテフ(79)は「当初過度な期待を抱いただけに、その後の国民の失望も強かった」と分析する。政治家としての彼の人気は急落。次の総選挙で与党は惨敗し、シメオンは政権を譲った。

シメオン2世ことシメオン・サクスコブルグゴツキ=2018年11月7日、ソフィア郊外、国末憲人撮影

首相就任を後悔しないのか。

「ある意味では、してますよ」。彼は率直だった。「いろんな人から批判されました。たぶん私は、自らのイメージを壊したのではないかな」。一方で、こうもいう。「単に宮殿でのんびりするだけでなく、自分の能力を国に捧げたいと思ったのです。共和国に貢献できて、自分としては光栄でした」

シメオン2世ことシメオン・サクスコブルグゴツキが暮らす宮殿から窓越しに庭を見る=2018年11月7日、ソフィア郊外、国末憲人撮影

戦後、共産主義下で君主制を廃止したのは隣国ルーマニアも同じ。民主化後に王家は一定の支持を集め、君主制復活の運動も盛り上がる。

しかし、シメオンが人気を失ったブルガリアでは、そうした声は高まらない。一方、ブルガリアで長期化した現政権は強権性を強め、右翼ポピュリスト政党も台頭する。EU内で最も貧しい状態から抜け出す道筋は見えない。

シメオンと交流のある元文化相ペテル・ストヤノヴィッチ(51)は語る。「政治家の野心を抑止できるのは国王しかいない。民主主義とのバランスを取れば、君主制が有用なのは明らか。世襲だとバカが跡を継ぐ恐れがあるなどという人もいるが、選挙で選ばれた政治家の方がバカの確率はずっと高い」

シメオン2世と親交を保つ元文化相のペテル・ストヤノヴィッチ=2018年11月24日、ソフィア、国末憲人撮影