世襲の君主制は、潜在的に民主主義と矛盾する要素をはらんでいる。
明治から昭和初期には、天皇の下に臣民がいて、天皇は全国を回り、東京や地方で親閲式などの儀式を行った。それに対して臣民ができたのは「奉仕」。君が代斉唱や万歳三唱、分列行進などの忠誠行動をとり、言葉はタブーだった。一糸乱れぬ姿勢を示すことで「君民一体」の空間ができ、「国体」が可視化された。
平成にはいって、福祉施設や被災地、かつての激戦地への行幸啓が非常に増えた。万単位の人々が万歳した「昭和」とはちがい、「平成流」では、天皇・皇后がひざをついて、一人ひとりと話す。今度は一対一の関係で、天皇と国民がひとつになる。それを皇太子・皇太子妃時代から約60年間続けている。累積すれば、すごい数になる。明治以降の近代の天皇制の基本構造を受け継ぎつつ、「国体」がミクロ化されているように見える。
天皇が内閣や議会を媒介せず、国民一人ひとりと結びつくことで、今の政治に対する「アンチ」につながっている側面もある。本来は野党が政権へのアンチにならなければいけないのに、そうならないで、天皇・皇后を理想化して、すがっている。政党政治が空洞化するという点で、超国家主義が台頭した昭和初期に通じるものがある。
いまでも天皇に対する批判はタブーだ。2016年8月、現天皇がビデオメッセージで「退位」の意向をにじませた際も、もっと議論があると思っていたが、多くの憲法学者や政治学者がすんなり認めた。天皇が「おことば」を発するや、それが絶対になる、ということは本来おかしい。
皇太子と雅子妃は、自然や水に親しみ、国家を超えた環境問題などグローバルなことに関心があるように見える。皇太子は登山が好きだが、天皇になってもお忍びで山にいったりするとおもしろい。そうなると大正天皇に近くなる。雅子妃も宮中のしきたりを変えるかもしれない。宮中では、女性に多くの負担がかかるしきたりが残り、雅子妃自身が苦しんできたからだ。
【次の記事を読む】 政治の不作為、埋めてきた天皇 河西秀哉氏が見る現代の天皇制