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3・1運動で大きな役割果たした太極旗 独立宣言書の文章よりも強い影響力

東亜日報より
3・1運動当時使用されたものと推定される太極旗(登録文化財第458号)
3・1運動当時使用されたものと推定される太極旗(登録文化財第458号)

デモを広げた「メディア」としての旗

#1.1919年3月2日の夜、黄海道の谷山では、天道教の指導者であったキム・ヒリョンは京城(現・ソウル)から独立宣言書を受け取った。天道教の指導者10人余りが3月4日をその日と決め、万歳デモを計画。しかしながら、独立宣言書だけでデモを率いることができるのか、疑問だった。結局彼らが考え出した方法は、「旗」だった。4日になると、「朝鮮独立」と書いた大きな旗を作り、数百人の群衆と共に黄海道地域の3・1万歳デモを先導した。

#2.慶尚南道の咸安郡の儒学者たちは、3月5日に京城で行われた高宗(注:大韓帝国皇帝)の国葬に参加した後、故郷で万歳デモの準備をしていた。地域の書堂(注:私塾)の教師や生徒に連絡し、大韓独立歌という歌を作り、太極旗も作った。2週間準備した末、3月19日、咸安で独立宣言書を配り、太極旗を掲げて3千人余りの群衆と共に動きだした。

1919年3月1日から全国に万歳の声を響かせた3・1運動の中心には、太極旗、独立旗のような旗と愛国歌、独立歌などの歌があった。3・1運動に参加した大衆に「独立」というメッセージを知らせた「メディア」のような役割だった。

最近構築された国史編纂委員会の「三一運動データベース」を通して、万歳デモの現場のメディアを分析した新たな研究結果が出た。延世大学史学科のイ・ギフン教授が3・1運動関連の判決文を分析し、宣言書と旗、歌などの使用状況を分析した論文「3・1運動のメディアの象徴体系」だ。この研究は、国史編纂委員会と東亜日報が共同主催し、2月27日、ソウル市鐘路区の一民美術館で開いた3・1運動100周年記念の学術会議「100年ぶりの帰還:3・1運動、デモの記録」で、発表された。

3・1運動を主導した民族代表33人は、独立宣言書を全国各地にばらまいた。目標は宣言書を朗読し、朝鮮人全員が参加する万歳デモを起こすこと。大韓帝国で使用された太極旗や学生たちが歌った愛国歌については考えていなかった。実際、3月1日と5日に京城の市内で起きた万歳デモでは、太極旗をはじめ旗や独立歌のような歌は見当たらなかった。しかし、地方で3・1運動を主導した者たちの考えは違った。当時、朝鮮の識字率は20%に過ぎず、地方ではさらに識字率が低かった。漢字で書かれた独立宣言書の内容を大衆が理解できるとはとても思えない状況だった。

彼らは大衆が直感的に理解できる旗を重要な方法と考えた。代表的な例としては、1919年4月5日、忠清南道の青陽郡の市場では、万歳の声と共に太極旗10枚が配られ、独立デモが始まった。全羅南道の康津郡でも4月4日、学生とキリスト教徒たちが独立宣言書と独立歌を刷って、太極旗を配った。

イ教授は「3・1運動の流れの最初の3月初旬(1~10日)に発生した事件を扱った55件の判決文のうち、25%にのぼる14件が宣言書中心だったが、3月中旬(11~20日)には11%、3月下旬(21~31日)には7%に減った。3・1運動が地方都市に広がる中で、宣言書の代わりに旗や檄文などが重要な手段として登場したため」と説明した。

雰囲気を盛り上げる歌も大衆を率いる重要メディアだった。3月1日、平壌の崇徳学校では楽隊の演奏に合わせ、賛美歌を歌いながらデモを始めた。3月19日、慶尚南道の晋州郡では太鼓とラッパを先頭に、万歳の行進をした。3・1運動が全国各地に広まった4月初旬(1~10日)に発生した事件を扱った判決文94件には、歌など音声が主導した事件が半数を超す49件にのぼった。

イ教授は「3・1運動をきっかけに太極旗が民族の抵抗と独立の象徴という性格を確固たるものにした。当時使用されたメディアの旗や宣言文、檄文、垂れ幕、歌が浸透し、近代的な政治闘争として『デモ』という方法が大衆に自然と知られるようになった」と話した。

(2019年2月25日付東亜日報 ユ・ウォンモ記者)

(翻訳・成川彩)