森部淳(もりべ・じゅん) 1981年大津市生まれ。筑波大学体育専門学群卒。私立の中高一貫校の教師を経て、2013年からJICA青年海外協力隊としてエルサルバドルで卓球を指導。その後、プエルトリコを経て、現在はドミニカ共和国で卓球を教えている。
私のON
サントドミンゴには2017年10月、同じくカリブ海にあるアメリカ自治領プエルトリコから移ってきました。プエルトリコでも卓球コーチを生業としていました。
プエルトリコで指導した選手のひとりが、16年のリオ五輪に出場したアドリアナ・ディアス(18)です。プエルトリコ初の卓球代表です。国内だけでなく世界的にも人気が出て、活躍中。彼女と一緒に保険会社や銀行などのCMに出演したこともあります。1月の「パンアメリカンカップ」では、南北米大陸のランキング上位16人が参加するなか、アドリアナが優勝しました。試合後ファンが殺到し、会場から出るのに2時間かかりました。
今住むドミニカ共和国でも子どもたちを教えています。内気な子どもが多く、試合中でも負けそうになると途中で諦めたり、泣いたりしてしまいます。これを克服するため、練習中はもとより日常生活でも弱気な発言を禁じ、ポジティブに振る舞えるように努めています。
国内トップ選手やコーチでも基礎的な技術や用具についての知識が乏しく、驚かされることがしばしばです。そのため、選手やコーチたちとは卓球以外のことでもコミュニケーションをとり、何が欠けているのかを探りながら指導に当たるようにしています。
私は中学校から本格的に卓球を始めました。筑波大学に進んで体育を専攻し、卓球部で活動しました。その後大学院に進んだのですが、1年たったところで休学して卓球のコーチングを学ぶために海外に出ました。将来卓球の指導者になるには、若いうちに指導経験を積むことが必要だと感じたからです。
大学のコーチのつてでまずルーマニアに行き、続いてスウェーデンへ。それぞれ1カ月間、クラブチームの練習に参加しました。次にスウェーデンで出会った中国人選手に誘われて北京の強豪クラブの練習に参加し、約8カ月間滞在しました。
その後は、地元の滋賀に戻って卓球教室で教え、さらに教員として7年半、卓球を教えました。この頃、選手としても国体に4回、全日本卓球選手権に8回出場しています。しかし、そんななかでも海外で卓球を教えたいという気持ちが強まり、2013年にJICA(国際協力機構)の青年海外協力隊で赴任したのが中米エルサルバドルの首都サンサルバドルです。
卓球のレベルは高いとは言えませんでしたが、教えがいがあって毎日楽しく過ごすことができました。ただ治安が悪く、街ではギャングの抗争がときどき起きて、死者も出ます。移動中は緊張しっぱなしでした。エルサルバドルでの2年間の任期を終え、向かったのがプエルトリコでした。真っ先にコーチとして誘ってくれたのがプエルトリコだったのです。
コーチとしての活動は順調だったのですが、プエルトリコは2017年9月に大型ハリケーン「マリア」の直撃を受け、3000人近くが犠牲となる大惨事に直面しました。私はその時ちょうど国際大会でコロンビアにいて被災を免れました。ハリケーンから3カ月間、電気も水も止まり、食料も底をついて大変な状態に陥りました。私は被災1カ月後に自分が住んでいたアパートを見に行く機会があったのですが、住める状態ではありませんでした。
ドミニカ共和国に来て1年半近く。いまは、子どもが選手として成長するのを見ることが何よりも楽しい。素質や技術よりも、やる気が大切だと思っています。卓球はこの地ではまだまだマイナーなスポーツ。人気があるのはカリブ海諸国では野球とボクシング、中南米諸国ではサッカーです。強い選手を増やして卓球の認知度を高めたいと思っています。いまの目標は世界チャンピオンを育てることです。
私のOFF
サントドミンゴの街には、とても美しい海岸が広がっています。ただ、結局は海に遊びに行くこともなく、四六時中、卓球のことばかり考え、卓球にかかわることをしています。YouTubeを見るときも卓球関連ばかり。時間があれば家の掃除と洗濯をしています。
サントドミンゴは物価が高いので、ちょっと大変です。スーパーはお金持ち向けで、庶民は露店などで日用品を買っています。パンは高級品です。庶民にとっては「プラタノ」という甘くない料理用バナナが主食。マッシュポテトのようにすりつぶした「マングー」を食べます。僕も基本は自炊です。
ドミニカ共和国の人は外国人にはあまり慣れていないのか、人見知りをします。ただ、一度仲良くなると、その後はずっと親切です。