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「バスク最後の兵士」は100歳 スペインの歴史認識問題を憂える

ニューヨークタイムズ 世界の話題
ホセ・モレノ。スペイン・ポルトゥガレテの自宅で内戦時代の思い出を語った=2019年1月9日、Samuel Aranda/©2019 The New York Times

1937年、スペインは内戦のさ中にあった。ホセ・モレノはバスク人の兵士だった。後に内戦の勝者となる総統フランシスコ・フランコ率いた反乱軍側に捕まり、司令官の一人に死刑を宣告された。当時、モレノはまだ10代だった。

しかし、理由がまったく分からないまま、モレノは命拾いをした。歳月は流れ、2018年11月、モレノは100歳の誕生日を祝った。今、バスク最大の都市ビルバオの郊外に立つアパートで、娘と一緒に暮らしている。

「私は、あの時に死んでいたはず。しかし、この通り生きている。これまで耐え抜いてきたことはすべて、はっきりと思い出せるほど元気だ」。満面の笑みでモレノは語った。「なぜ殺されず、監獄送りになったのか、私は今も本当に分からない。だから、こんなに長く生きてきたなんて、信じられないのだ」

モレノは今、自分のことを「最後のグダリ(バスク語で「兵士」の意)」と、誇りを込めて呼んでいる。スペインの共和国政府(人民戦線内閣)に対し、フランコが率いる軍が反乱を起こして内戦になったのは1936年。バスク自治政府軍は、共和国政府側に立った。「グダリ」は、そのバスク軍部隊に参加した兵士たちのことを指している。内戦勃発から1年の後、ビルバオはフランコ軍部隊に陥落した。ドイツ、イタリアのファシズム政権がフランコ側を軍事支援していた。

モレノの大隊はイタリア部隊に投降し、フランコ側に引き渡された。モレノによると、スペイン人の司令官が「お前は銃殺される」と告げた。しかし、減刑され、3年間獄中にいた、という。

39年4月に内戦が終わると、モレノは強制収容所に送られ、敗れたバスク人大隊の仲間たちと一緒に道路改修の労働を科せられた。

内戦が始まった時、モレノはまだ10代だった。だがそれは、彼の人生の中で閉じようとしなかった、おそらくあえて閉じなかった一章でもある。ここ1年半、彼はテレビの前にくぎ付けになり、カタルーニャの独立を目指す動きやスペイン政界の大きな変化を追っていた。ニュースを見る彼の目には、カラーテレビになっても白黒画像に見えて仕方がない。内戦中の体験と、彼の強烈なバスク・ナショナリズムがそうさせているのだろう。

スペイン内戦時代のホセ・モレノの写真。ポルトゥガレテの自宅で見せてくれた=2019年1月9日、Samuel Aranda/©2019 The New York Times

今、彼の最大の関心事は、スペインにおける極右勢力の復活だ。南部アンダルシアの州議選で、反移民を掲げる新興右翼政党ボックス(Vox)が初の議席(訳注=12議席。議会定数は109)を獲得した。ボックスは、全国レベルでは少数派のままだと各種世論調査は伝えているが、モレノにとっては心配の種。「このままでは今後、スペインは独裁制に戻ってしまう」とまで警告するのだった。

モレノは以前、地元紙に手紙を書いたり意見を投稿したりしていた。スペイン現代史上最も悲痛な時期だった「フランコの時代」をスペイン自身がいかに歪曲(わいきょく)してきたか、彼はしばしば批判してきた。

その歴史認識問題は、2018年6月の政権交代後、中道左派の政府が取り上げるようになった。

首相に就任した社会労働党のペドロ・サンチェスは、歴史の記憶に関する法律に基づき、フランコ統治下における犠牲者たちをもっと評価し、配慮したいとの方針を示した。同法は前社会労働党政権時代の07年に成立したが、その後マリアノ・ラホイ率いる中道右派政権が実施を見送り、政府の関連基金も取り上げてしまった経緯がある。

同法の主要目標の一つは、2千以上の共同墓地に埋まっている遺骨を特定するため、墓の掘り起こしを促進することだった。遺骨のほとんどは内戦の犠牲者と見られている。

現在、サンチェスが優先的に取り組んでいるのは、「戦没者の谷」(訳注=首都マドリード郊外にある)の聖堂からフランコの墓を移すことだ。「戦没者の谷」は、フランコが「神とスペインのために」内戦の犠牲となった人びとの栄誉をたたえて造った慰霊施設だ。だが、サンチェスの方針はフランコの血縁者側から法的論争が起こされて中断している。血縁者側はフランコの墓を撤去するなら、移動先はマドリードの大聖堂に限られる、と主張している。議員の間でも、フランコの墓の跡地をどうするかという問題で言い争っている。

モレノにしてみれば、フランコを「戦没者の谷」から移すだけでは不十分であり、スペインの歴史本を見直し、「ヒトラーやムソリーニ、その他のファシストの戦争犯罪者と同列に扱う」必要がある。
内戦に敗れた人たちをフランコがいかに粛清したか、モレノはこの目で直接見たのだ、と言った。「刑務所の監房から何人も引きずり出され、外で射殺された。私は見たのだ」。それに「フランコが戦争の通常法規に違反していなかったなんて誰にも言わせはしない」と。

強制収容所から解放されたモレノは、14歳の時に初めて入った商船隊で再度働こうとした。当時、石炭運搬船に乗ってイタリアの港に入ったが、そこで見たのは「ファシズムの醜さだった」。「多くの人が怖がっていた。惨めで、飢えに苦しんでいた。我々の船に援助と食べ物を求めて来ようとする人たちもいたが、イタリアの警察は、我々が人々に援助するのを一切禁止していた」とモレノは述懐した。

商船隊に戻って海で働くことはしかし、拒否された。フランコ政権に「赤い分離主義者」のレッテルを貼られていたためだ。結局ビルバオの造船所で働くしかなかった。地元の労働組合を手伝いながら造船所で働き続け、30年以上前に退職した。

モレノは毎年6月、ビルバオの街を見下ろすアルチャンダ山に立つ記念碑の前で行われる式典に出席して、スピーチをする。彼は碑の建設運動に携わった一人でもある。記念碑は、内戦でフランコ軍と戦ったバスク人兵士の栄誉をたたえ、大きな指紋の像が刻み込まれている。不変の指紋は、モレノの言葉を借りれば、「我々は民主主義のために闘った人たちを決して忘れてはならない」という記憶の証しである。モレノにインタビューした時、彼はバスクのベレー帽と襟に記章をピン留めした軍用コートを着ていた。

今、彼はビルバオの郊外、かつて働いていた造船所に近いポルトゥガレテのアパートで、娘のマヌエラと暮らしている。アパートの部屋は思い出の品々でいっぱいだ。モレノが地元の政治家と会談している数々の写真。バスクの記章が彫り込まれた陶板の時計。その時計は大きな音を立てて時を刻んでいる。

アパートの近くには息子のリカルドも住んでいる。娘のマヌエラに、父の健康の秘訣(ひけつ)を聞くと、彼女は冗談めかして「落ち着きのなさ。そして短気なこと」。それから「食事を楽しみ、趣味を持っていること」と言った。

モレノは最近まで、伝統的バスクダンサーズ協会のメンバーだった。ダンスの趣味も内戦と関連している、と彼は言った。1936年7月、フランコが軍事蜂起したニュースを聞いた時も、彼はダンスの会に出席していた。「17歳だった。どの女の子と踊ろうか、と夢中だった。でも、これは大変なことになる、兵士に志願しようと思った」とモレノ。

最近、モレノは外出を控えていて、せいぜい足を引きずってアパートの廊下を歩くくらいだ。娘のマヌエラは、6月のアルチャンダ山での記念式典に出席できれば、と期待しながら父を気遣っていた。(抄訳)

(Raphael Minder)©2019 The New York Times

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