アイコ・ヨシナガが17歳の時だった。彼女を含む15人の日系アメリカ人の生徒が、高校の校長室に呼び出された。1942年4月、ロサンゼルスでの出来事だ。ヨシナガは成績優秀な生徒で、卒業までは残り2カ月。大学生活を楽しみにし、ダンサー、そして歌手になることを夢見ていた。だが、ヨシナガの記憶によれば、校長は次のように告げたという。「君たちに高校を卒業する資格はない。日本人がパールハーバーを爆撃したからだ」
その年の2月、フランクリン・D・ルーズベルト大統領が大統領令第9066号を発令していた。これにより、米国西海岸に住む11万人を超える日系アメリカ人の強制収容への道が開かれることとなった。同年の春、ヨシナガは自宅から250マイル(約400キロ)離れたカリフォルニア州マンザナーにある収容所に到着した。ヨシナガは高校時代の恋人と駆け落ちして結婚したばかりで、彼とその家族5人とともに同じ部屋で過ごすことになった。部屋には電球が一つ、ストーブが一つ、そして簡易寝台と毛布が置かれているだけ。水道もキッチンもなかった。
終戦後、ヨシナガに支給されたのは25ドルのみで、どうやって生活を立て直せばいいか、見当もつかなかった。その後の数十年間は、生き延びることに必死で、自分や家族が受けた不当な扱いについてゆっくり考える余裕はなかった。60年代後半になってようやく、アジア系アメリカ人の活動家団体に参加することになる。その頃のヨシナガはすでに最初の夫と離婚し、再婚した2人目の夫とも別れシングルマザーとして3人の子供を育て様々な事務仕事を経験していた。
ヨシナガは、日系アメリカ人の活動家であり作家でもあるミチ・ウェグリンから、日系アメリカ人の歴史を理解したければ公文書館に行くように言われ、収容所における家族の記録から調べ始めた。しかし、首都ワシントンの国立公文書館にあった一連の文書をきっかけとして、その他の資料も調べるように。当初は週に1~2日程度だったのが5~6日に増え、1日あたり最大12時間になった。時には、彼女の3人目の夫であり、彼女が「心から愛する人」と呼んでいたジャック・ハージッグも同行していた。
81年、ヨシナガは戦時民間人再定住・抑留に関する委員会の調査員に応募。米国議会が設立した同委員会は大統領令第9066号の裏にある動機を明らかにし、その影響を文書化することが目的だった。彼女はすでに約8000件の文書を収集。自宅には書類棚が並び5~6段に積まれた段ボール箱が多数置かれ、浴槽は収納場所と化していた。
82年のある日、彼女は、公文書館の職員の机の隅に置かれた黒い本を見つけた。戦時中の日系アメリカ人の立ち退きを提案・監督したジョン・デウィット中将が作成した報告書のように見えた。文の周りには鉛筆による書き込みがあった。
ヨシナガはその時すでに、デウィットの当初の報告書の内容が、強制収容の根拠として陸軍省が公表していた内容に反していたため、同省関係者が修正を強く求めていたとの情報を得ていた。さらに、同省が当初の報告書をすべて破棄するよう命じていたことも。ただ、1部だけ所在不明になっていることを思い出した。まさにその1部が彼女の手の中にあった。
この発見は、委員会の報告書において重要な証拠となる。報告書は、「強制収容」が「人種的偏見、戦時中の集団ヒステリー、政権の失策」に基づいていたと結論づけた。報告書を受けて、88年にロナルド・レーガン大統領が謝罪を発表し、生存者に対し1人2万ドルの補償金が支払われることとなった。
勝利はしたものの、傷は残っていた。元生徒の一人がロサンゼルスの教育委員会に補償を求めた結果、89年10月、ロサンゼルス高校には、晴れやかな青色の角帽と、カーネーションをピンで留めたガウンを身に着けた、60代になったヨシナガと十数人の同級生が集まっていた。委員会からの謝罪を受けた後、かつての高校の応援フレーズを斉唱した。そして、1人ずつ壇上に上がり、卒業証書を受け取った。その日付は、42年6月26日。その日は、別の雰囲気、別の政権の下で、各生徒が新たな人生に一歩を踏み出すはずの日だった。選択肢と自由にあふれた人生に。
(マギー・ジョーンズ、抄訳 河上留美)©2018 The New York Times
◇
Maggie Jones
ピッツバーグ大学でライティングプログラムを教え、ニューヨークタイムズ・マガジンの寄稿記者でもある。