The space for nuanced debate in an era of outrage
(怒りの時代に、ニュアンスある議論へ与えられた空間) By Cathy Wilcox
■1枚の絵でバッサリ それでも風刺に敬意
海外の出張先で地元の新聞を買うと、必ず風刺画を探す。言葉が苦手でも絵だからわかりやすいし、その国でいま、何が一番話題になっているかを知ることができるからだ。
日本の新聞も風刺画を掲載するが、割と地味な扱いが多いように感じる。これだけ漫画文化が発達しているのに、政治の風刺画が別扱いなのはなぜだろう。
特派員として4つの国で暮らしたが、毎日複数の地元紙で風刺画をチェックするうちに、その国のユーモアの傾向まで見えてくるような気がした。「自虐的なギャグが多い国だな」とか、「シニカルな笑いを好む国民性なのかな」とか。新聞ごとにお抱えの風刺画家がいるので、ひいきの作者も決まってくる。
私が2年前まで特派員をしていたオーストラリアは、風刺画が非常に盛んな国だった。風刺画家が多くて知名度も高く、売れっ子になるとテレビの政治番組にコメンテーターで呼ばれることも。1924年に創設されたペン画家協会(現在のオーストラリア風刺画家協会、ACA)は、「世界初の風刺画家団体」とされている。
オーストラリアの風刺画は、ブラックユーモア度がかなり強い。有力な政治家が失言などしようものなら、各紙がこぞって取り上げる。どんなにデフォルメされても、描かれた側が逆ギレするのを見たことがない。風刺画は、表現の一手段として敬意を払われているのだ。
個人的には、主要紙のシドニー・モーニング・ヘラルド紙やジ・エイジ紙に描いているキャシー・ウィルコックスさんのファンだった。シンプルでかわいい系の画風なのに、ばっさりと切る爽快さ。たった1枚の絵で「なるほど」と言わせる説得力がある。シドニーから日本へ戻ってからは、彼女のツイッターアカウントをフォローして作品をチェックしていた。
■白黒の間に込められた意味
昨年9月、ウィルコックスさんがツイッターにアップした風刺画を見て、思わずうなった。長方形が左右で黒白に塗り分けられ、真ん中にグレーの細い線が引いてあった。その線には、「怒りの時代に、ニュアンスある議論へ与えられた空間」という説明が添えられていた。
「分断の時代」と言われるいま、確かに10年前と比べると、意見が二分化、二極化する印象が強い。自分に批判的なメディアに対し、口を極めてツイッターでののしるトランプ米大統領に代表されるように、特にソーシャルメディアでその傾向が強い。
でも、普通に暮らしていれば、「どっちもどっち」だと感じたり、相手に合わせた考え方をしたりすることが多いのではないだろうか。「だめなものはだめ」と言える社会であることは大切だけれど、違う人、異質の考え方と交わることで、自分に欠けているものに気がつくこともある。
ウィルコックスさんの風刺画には、そんな微妙な感情が詰まっているように感じた。真ん中に引かれたグレーの線は、「あいまい」とか「ごまかす」という部分ではないはずだ。なんというか、声の大きさに押されて、柔軟な「真ん中」の居場所がなくなっているような……。
彼女がどんな思いで描いたのか、電話でもいいから聞けないだろうか。たまたま知り合いの学者が彼女の友人だったので、連絡を取ってみた。なんと、「もうすぐ休暇で日本へ行く」という。
2週間後の昨年9月末。台風24号の接近で首都圏の電車が計画的運休に入る約2時間前に、ウィルコックスさんは無事にシドニーから日本へ到着した。会ってみると想像通り、明るくて好奇心旺盛で、自分の意見をわかりやすく説明してくれる人だった。
私が深く共感した「ニュアンス」の風刺画を描いたきっかけは、昨年9月のテニスの全米オープン決勝で、大坂なおみ選手に負けたセリーナ・ウィリアムズ選手が審判に抗議した「事件」だったという。コート上で激怒する様子を別のオーストラリアの風刺画家が描いて地元紙に発表したところ、「女性と黒人を差別している」とツイッターで大炎上した。英国の有名作家も激しく非難するなど、騒ぎは世界中へ広がった。
ウィルコックスさんは当時の騒動を、こんなふうに分析した。
「彼(=非難された風刺画家)の作風に慣れた『中』の読者であれば、オーストラリア人にとって非常に重要なスポーツマンシップの大切さを訴えた風刺なのだとわかります。でも、彼や彼の作品を知らない『外』の読者はどうでしょう?スポーツ選手に規範的な態度を求めていなかったり、人種差別が日常的に問題になっていたりする世界の人たちにとって、あの作品が意味するものは全く違うものでした」
「『外』で生まれた怒りは極致に達し、作者は『卑劣な差別主義者』のレッテルを貼られました。その一方で、作者自身や彼を擁護する『中』では、あの作品を見て実際に傷ついた人々への配慮は一切ありませんでした。人種差別や女性差別に苦しんでいる人々の気持ちを、想像しようともしなかったのです」
「『外』と『中』は、それぞれが自分流の見方を貫くと決めました。中間点や妥協点を見つけることなど不可能であり、受け入れがたい降伏だと考えたからです。この姿勢は、ソーシャルメディア的な怒りの典型ともいえますね」
■ソーシャルの時代、「ニュアンスある空間」は残るのか
風刺画家として30年以上のキャリアがあるウィルコックスさんだが、自分の経験から振り返っても、「SNS時代になって、作品への読者の反応が明らかに変わった」と感じているという。
「実社会では、異なる意見が対立するさまざまな問題で、中間点や妥協点が存在します。それは、味方チームから応援されたり、相手チームから批判されたりするだけでは見えてきません。時間をかけて双方の正しさや間違いに触れて、初めて見えるものです」
「SNSで瞬時にシェアや反応ができる時代になってから、建設的な対話や話し合いを重ね、中間点や妥協点をみつけることへの興味がなくなってきたと感じています。対立やいがみあいのニュースの方が売れるからでしょう。『ニュアンスある空間』が消えつつあるのではないかと心配です」
いずれの言葉にも、「そうそう、私も感じていたことだ」と共感を覚えた。でも、それを新聞の社説で、文章だけで伝えようとしても難しい。ならば、社説に風刺画をつけてはどうか――。
物心ついたころからずっとSNSに親しんでいる若者は、どう思うだろうか。取材で会った大学生たちに風刺画を見せ、「どう思う?」と聞いてみた。「分断の時代とかって言われても、ピンとこない」「私たちなりにバランスを取って生きているつもり」などと話しつつも、風刺画については「この絵が伝えたいことは、なんとなくわかる」という反応だった。
ウィルコックスさんの風刺画を見てから4カ月。いろいろな社会活動をする人たちに尋ね、自分でも考えながら、何度も書き直した。こうして今年1月14日付の社説で、「成人の日に/思考の陰影感じる世界へ」が掲載された。
それにしても、風刺画の説得力ってすごいなあと感心してしまう。風刺画ファンとしては、これからも国籍を超えて優れた作品に触れたいものだ。