今月15日、ケニアの首都ナイロビの高級ホテルなどが武装した集団に襲撃され、少なくとも21人が犠牲になった。日本企業が事務所を構える地区で起きたこともあり、現地に住む日本人にも衝撃を与えたこの事件。紙面では書ききれなかった取材の裏側や襲撃現場に居合わせた日本人駐在員らの話を紹介したい。
15日午後3時45分ごろ、ケニア人の助手から電話があった。「リバーサイド地区で爆発があった。地元テレビが速報を流している」。この付近では2013年、高級ショッピングモールが襲撃され、約70人が犠牲になる事件が起きていた。
2日前にナイロビを訪れていた私は、「今回も同じようなテロ事件かもしれない」と思い、泊まっていたホテルのテレビをつけた。3キロほど離れたリバーサイド地区の建物周辺から煙が上がる様子を映していた。間もなくして、高級ホテルなどが襲撃され、爆発や銃声があったことが分かった。隣国ソマリアを拠点にし、ケニアでテロ事件を繰り返すイスラム過激派「シャバブ」が犯行声明を出した。
ホテルやオフィス、飲食店が立ち並ぶこの地区は、日本貿易振興機構(JETRO)や三井物産など、日本企業が事務所を構え、日本人の駐在員にとってはなじみの場所。私自身も、翌日にJETROの事務所を訪問する予定だった。
テロの危険性が低い日本での取材ならば真っ先に現場に向かうところだが、海外での取材はより慎重になる。襲撃犯が集まってきた報道陣や市民たちを狙って、2回目の攻撃をしかけてくる恐れがあるからだ。
次の日の朝刊に向けた作業が佳境に入っていたこともあり、まずは分かる範囲で原稿を執筆。午後5時ごろ、現場に到着した。すでにホテルの数百メートル先で規制されていたが、車椅子で救出された人や涙を流す人、パーマをあてたまま逃げてきた女性が続々と避難してきた。時折、襲撃されたホテルの方角から銃声が何発も鳴った。
その場で呆然としていた男性は「事件があった建物で働いている娘と連絡が取れないんだ」と訴えかけてきた。午後3時半過ぎ、娘のブレンダ・オングチさん(30)から「銃声が大きくなってきた。何かあるか分からない。愛している」というメッセージが届いたのを最後に、連絡が付かなくなったという。
それから2時間後、娘は治安部隊に救出された。家族や父親を見かけると涙をこぼし、「ありがとう」と言って抱き合った。彼女は取材に対し、「爆発音が聞こえ、煙があがった。逃げようとしたが何発も銃声が聞こえ、その音が大きくなったので避難できなかった。2時間ほど部屋の隅で隠れていた」と語った。
一方、JETROナイロビ事務所で働いていた久保唯香さん(27)は、事件直後に通常の出入り口とは別の非常口から現地スタッフらと避難した。武装集団が来ていた方角とは逆方向に走り、有刺鉄線が張られていない高さ約1㍍80㌢近くのフェンスをよじ登ったという。
「今でも、どう対応するのが正解だったかは分からない。ただ、あと5分事務所で待機していたら、逃げられなかっただろう」と振り返る。事件から6日後、荷物整理のために初めて事務所に戻ることができたが、入り口付近まで流れ弾が飛んできていたという。
久保さんは事件の教訓として、現地の日本大使館やリスク管理会社、SNSなど複数の情報源を持つことをあげた。また、事前に避難経路を確認しておくことや事件があった際の精神的ケアの必要性も訴えた。
ケニアでの事件発生から約20時間後、治安部隊は襲撃犯を射殺するなどして現場一帯を制圧。襲撃に関与した複数の容疑者も逮捕した。現地の日本大使館によると、今回の事件で、日本人の被害者は確認されなかったという。だが、結婚したばかりの男性や誕生日が間近だった女性、2001年に米国で起きた同時多発テロで生存した米国籍の男性らが犠牲になった。
この事件を巡って、「アフリカは危ない」「遠い国で起きたこと」と思うかもしれないが、欧米諸国などでもテロ事件は起きているし、海外で私たち日本人がテロ事件に巻き込まれた例もある。
JETROの久保さんは「何かあった時の対応策について、他人事ではなく、日頃からきちんと考えておくのが大事」と言っていた。異国の地で起きたことについて、自分事として考えるのは難しいが、自分の身を守るために一番大事な教訓かもしれない。