トナカイを飼う。多くのサーミ人にとって、それは単なる仕事ではない。スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、それにロシアの北部地方に暮らす14万人足らずの先住民族サーミ人にとって、トナカイは生活そのものだ。
26歳ながら少年のような顔立ちのJovsset Ante Saraは、ツンドラ地帯にある自分のトナカイ遊牧地を、碁盤目状の都市区画のように知り尽くしている。そこにあるすべての丘や渓谷は身内みたいなもの。隅から隅まで、先祖代々ていねいな仕事をして守り続けてきた大地を引き継いでいるのだ。
Saraは、トナカイの耳に付けられた標識で自分のトナカイをすぐ見分けられる。彼と家族にとっては、彼らの伝統と同じく、トナカイは、生活し、放牧地への権利を守るために欠かせない生き物だ。
だからこそ、Saraは10年以上も前にノルウェーで施行されたトナカイの頭数を制限する法律を拒否している、と言うのだった。だが、政府は、過放牧を避けるための措置だとしてSaraの主張を退けている。
話はこうだ。Saraが飼育しているトナカイの上限は、法律に基づき75頭に抑えられた。それ以上トナカイが増えると、間引かなければならない。しかし、彼は350頭から400頭ほど飼育しているトナカイを間引くのを拒否し、政府を相手取って裁判に訴えた。
「私の文化を抹殺するなんてできない。だから提訴した」とSara。
しかし、最高裁は彼の主張を退けた。敗訴による罰金は累積で6万ドル(1ドル=110円換算で660万円)にのぼり、放牧地まで失いかねない事態になった。政府は2018年末までに最高裁の決定に従うよう求め、さもないと罰金を加重するとした。
Saraの訴えは、ノルウェー政府を相手に自民族の文化と生活を守るためにサーミ人が長年闘ってきた抗議の一つにすぎない。
先住民でありながらキリスト教宣教師たちによって植民地化されたサーミ人は、古代から続いていたシャーマニズム的な生き方を強制的に放棄させられ、キリスト教文化に吸収された。子どもたちは寄宿学校に送られ、人類学者によって非人間的に研究された。そのおぞましい物語は、北欧諸国の歴史の汚点として今も語り継がれている。
現在、ノルウェーに暮らすサーミ人は約5万5千人。そのうちトナカイ飼育を専業としているサーミ人は10%。同国には推定22万頭のトナカイがおり、彼らは皮革用と食肉用にトナカイを売って生計を立てている。
「トナカイを殺す場合、私たちはそのすべての部分を利用する」。Saraはそう語った。
革は手袋や先端が巻きあがったスリッパのような靴になる。肉はノルウェー中で売られ、輸出もされる。枝角は細かく砕かれて精力剤として中国市場で売られる。
ノルウェー政府も歴史の過ちを何とか消し去ろうとしている。今ではサーミ人の大学があり、学校ではサーミ語を教えている。象徴的な形に過ぎないがサーミ議会もある。
Sapmi、あるいは「サーミ人の地」の中心と見なされているのがフィンマルク県にある基礎自治体カウトケイノ。18年のイースター(キリスト教の復活祭)では、サーミ人の若者たちが、かつては禁止されていた伝統的なヨイク(無伴奏の即興歌)のしゃがれた歌を聞きながらドラムをたたいていた。ガクティとして知られる伝統的な民族衣装に身を包み、レッドブルとビールをちびちび飲んでいた。
Elle Márjá Eiraはトナカイの飼育者兼歌手兼映画制作者で、2児の母でもある。34歳。彼女はサーミ人への強制的同化政策の昔話を今もよく覚えている。
今日、多くの年配のサーミ人はキリスト教の教えに従っているけれど、若い世代の中には差別やノルウェーの産業プロジェクトに積極的に抗議するサーミ人たちがいる。Eiraもその一人だ。産業プロジェクトはサーミ人の生き方を阻害する脅威、と受け止めている。
最近のこと、彼女の父、Per Henrik Eira(56歳)は国営送電会社スタットネット(Statnett)による政府のエネルギープロジェクトに危機感を募らせ、放牧仲間と共に裁判に訴え出た。訴えの理由はプロジェクトが夏の放牧地のかなりの部分をさえぎる、そのため自分たちの生活が脅かされる、というものだった。
しかし、結果は敗訴となった。スタットネット側は、プロジェクトはサーミ人の生活文化を脅かすことはない、と主張している。
Elle Márjá Eiraはしかし、スタットネット側の言い分に同意しない。
「この牧草地を失うと」と彼女は言った。「私たちはトナカイが子を産む場所を他に探さなければならなくなる。そこは他の飼育者の牧草地ではいけない。となると、私たちはずっと狭い所に追い込まれることになる。彼ら(スタットネット)は、そうやって私たちを牧草地争いの渦中に追い込んでいる」
彼女をはじめ他のサーミ人もトナカイの頭数制限に声を大にして反発している。
「問題は、誰がトナカイを間引くために殺すのか、政府が言明していないことにある。すべて飼育している家族に責任を負わせている」とElle Márjá Eiraは言った。
さらに彼女は「15歳の私の娘でさえ自分のトナカイを持っている。みんな持っている。父はけんかしないよう、自分のトナカイから間引き始めることにしたのだ」と明かした。
トナカイを飼育している多くのサーミ人からすれば、トナカイの割当制は、産業プロジェクト用に土地活用するため、政府がサーミ人の生活の糧を制限しようとしているのだ。
フィンマルク県の95%は政府の所有地だが、サーミ人のトナカイ飼育者は放牧権を持っていて、国有地の大半を利用している。政府は何十年にわたってサーミ人の独占的なトナカイ放牧を認め、先祖伝来の土地として飼育の免許を出している。
そのトナカイの頭数制限に関する法律が成立したのは07年。サーミ人飼育者に対し、当時のトナカイ頭数の30%削減を迫った。
頭数制限は壊滅的な結果をもたらす、とSaraは言った。もし彼が削減に従えば、年収はわずか4700ドル(同51万7千円)から6千ドル(同66万円)にしかならないだろうという。
「経費は高く、スノーモービルや装備代もかかる。そうなると生活していけなくなる」。彼はそう言った。
しかも、利益が出ないトナカイ飼育者は飼育免許を無効にすることもありうる、と法律で規定されている。Saraが失うものはそれだけではない。
「先祖たちが今日の私たちのために築いてきてくれた全てを失うことになる」。彼はそう語った。
その彼の訴訟を少しでも知ってもらおうと、姉でアーティストのMaret Anneは14年、雪で覆われたタナの裁判所の庭に、食肉処理したばかりのトナカイ200頭の頭部を積み上げて展示した。なんとも不気味な「ピラミッド」。頂点部分にはノルウェー国旗を立てた。裁判は地裁(一審)、地方裁(二審)で原告側が勝訴した。17年秋、彼が最高裁の法廷に立った際、Maret Anneはノルウェー国会の正面に400個のトナカイの頭蓋骨(ずがいこつ)をぶらさげたカーテンを展示してみせた。だが、最高裁では敗訴。
Saraと弁護士のTrond Pedersen Bitiは、ついにジュネーブの国連人権理事会に訴え出た。
「それしかなかった」とSaraは言った。(抄訳)
(Nadia Shira Cohen)©2018 The New York Times ニューヨーク・タイムズ
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