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伊豆の地に秘められた日露交渉の原点

迷宮ロシアをさまよう
戸田造船郷土資料博物館に展示されているディアナ号の模型(撮影:服部倫卓、以下同様)

厳しい日露関係だからこそ、原点を振り返ってみよう

2019年の日本とロシアの関係は、まさに正念場を迎えることになります。日本の安倍晋三総理は、自らの政権の下でロシアとの北方領土問題を解決し、平和条約を締結することに強い意欲を示しています。安倍総理の自民党総裁としての任期は2021年9月までと、まだ一定の期間が残ってはいるものの、本年2019年中に方向性が大まかにでも固まらなければ、「時間切れ」になってしまう恐れもあります。

おそらく歴代総理の中で対ロシア交渉に最も強い決意をもって臨んだのが、安倍総理だったと思います。もし仮に、安倍総理の努力が報われずに終わるようなことになると、反動が生じ、日露関係は冬の時代に入ってしまうのではないか。日露経済関係を促進する団体に勤務する筆者は、そのような懸念を抱いているわけです。

さて、今回ご紹介したいのは、日本とロシアが外交関係を樹立しようとしていた、ごく初期の時代のお話です。領土問題という難問を抱えて苦悩している今日と比べると、あまりにも牧歌的な時代の出来事に思えるかもしれません。しかし、難問に直面しているからこそ、歴史的な視点、広い視野に立って、新たなアプローチを切り開いていくことが求められるのではないでしょうか。今回のコラムは、ささやかではありますが、そのための頭の柔軟体操のようなものです。

戸田でプチャーチンが宿舎として使っていた宝泉寺。境内にはこの地で病死したロシア人水兵2名を祀る墓碑もある

ディアナ号とヘダ号の物語

話は19世紀半ば、日本では嘉永年間、ロシアでは皇帝ニコライ一世の治世に遡ります。舞台は、現在の静岡県の伊豆半島です。南伊豆の下田が日露修好事始めの地だったことは有名ですけど、駿河湾に面した西伊豆の戸田という村も日露関係史にその名を刻むことになりました。戸田は、今日では沼津市に属している小さな漁村です。

嘉永5年(1852年)、ニコライ一世の命を受けたプチャーチン提督が、日本との国交交渉に臨むべく、ロシアを出発しました。幕府から交渉の場所に指定された伊豆半島南部の下田に、プチャーチン一行がディアナ号で入港したのは、嘉永7年10月(1854年12月)のことでした。幕府側の代表である川路聖謨(かわじ・としあきら)らとの交渉が、ようやく始まりました。

ところが、その直後の嘉永7年11月(1854年12月)、安政の大地震が東海地方を襲い、その津波によって、下田港に停泊中のディアナ号は船底と舵を大きく破損してしまい、乗組員にも死傷者が出ました。ただ、そうした混乱の最中にあっても、プチャーチン一行は波にさらわれた日本人数名を救助したということです。

ロシア側は船の修理を希望し、傷付いたディアナ号は西伊豆の戸田まで曳航されることになりました。しかし、安政元年11月(1855年1月)、伊豆半島西沖を北上していたディアナ号は、強まった風と波のために戸田港に入ることができず、現在の富士川河口付近まで流されてしまいます。それでも、約500人の乗組員は、地元漁民の助けもあって全員無事に陸地にたどり着きました。改めて戸田に向けて曳航されたディアナ号でしたが、再び西風が強まり、ついに駿河湾に沈んでしまったのです。

船を失ったプチャーチン一行は、戸田でロシアへ帰るための船を作ることになりました。ディアナ号から運び出された帆船の設計図をもとに、ロシアの技術者と近隣の村々からも加わった船大工たちが、作業に当たりました。彼らは言葉や長さの単位の違いを乗り越え、わずか3ヵ月で100トンほどの帆船を完成させました。船大工たちの優れた技術は、ロシア人たちを驚かせたといいます。プチャーチンは、無事に進水した船を、当地の人々への敬意を込め、「ヘダ号」と名付けました。

この間、プチャーチンは下田で幕府との交渉に当たり、安政元年12月(1855年2月)には日露和親条約が締結されました。無事任務を終えた一行は、ヘダ号や米国船などに分乗して、ロシアに帰還していったのです。

ヘダ号は、日本で作られた初めての本格的な洋式帆船でした。後にプチャーチンは、「ヘダ号の建造は、我々と日本人との間をすっかり親密にしてしまった。このことは同時に、この国と我々との将来の関係の上にも、間違いない好ましい影響を及ぼすであろう」と書き記しています。その後、ヘダ号建造にかかわった船大工たちは、日本の近代造船業を支える人材になっていったということです。

日本とロシアの「初めての共同作業」となったヘダ号建造(戸田造船郷土資料博物館に展示されている模型)

日露和親条約こぼれ話

安政元年12月(1855年2月)に結ばれた日露和親条約は、正式名称を「日本国魯西亜国通好条約」といい、「下田条約」と呼ばれることもあります。

交渉でプチャーチンと渡り合った川路聖謨は、プチャーチンに好印象を抱いたようです。吉村昭著『落日の宴』には、川路の次のような言葉が出てきます。すなわち、自分より2歳下のプチャーチンは、ロシア皇帝の侍従武官長を務めただけあって、優れた識見を備えた人物で、会議の席でもその主張は鋭く、自分の反論に落着いた表情で耳を傾けている。米国使節ペリーが終始武力を背景に恐喝的な態度をとり続けたのとは異なり、プチャーチンには国情を念頭に冷静に協議を進めようとする姿勢が見える、と。今日では、「ロシア=こわもての国」というイメージが定着しているだけに、ここでのロシアと米国のコントラストは新鮮に感じられます。

日露和親条約では、二国間の国境を「択捉島とウルップ島との間にあり、択捉全島は日本領で、ウルップ全島並びにこれより北のクリル諸島は魯西亜に属す」と定めており、今日でいうところの北方四島が日本領であることを明確にしています。ここで面白いのは、プチャーチンは日本との交易が許されるなら、国境のことはあまり細々とは主張しないというスタンスだったとされる点です。現代世界では、領土こそ究極の国益であり、通商は二次的な利益にすぎないという通念が一般的ですけれど、時代や状況が変われば国益というもののあり方も変化するのかもしれないということを考えさせられます。

沈没したディアナ号の錨は、第二次大戦後に駿河湾から引き上げられ、現在は戸田造船郷土資料博物館の屋外に展示されている。ただし、錨が引き上げられたのは、別に当時の日ソ友好のためとかではなく、沈没現場で漁網が破れる被害が続出したからだという