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人生を大きく変えたあの日の出来事 もう一度ピッチに戻るまで

アジアの渡り鳥
ベガルタ仙台時代の筆者=VEGALTA SENDA提供
ベガルタ仙台時代の筆者=VEGALTA SENDA提供

Jリーガーをめざしていた僕は、仙台大学4年生の最後の大会(インカレ)が終わった時点でまだどこのチームからもオファーがなく、新たな道を模索せざるを得ない状況でした。サッカー道具をすべて後輩に譲り、バイトに打ち込むことでサッカーへの未練を断ち切ろうとしていました。

しかしそんなある日、某スポーツ新聞の記者から連絡があり、仙台大学と頻繁に練習試合をしていたブランメル仙台(現ベガルタ仙台)が僕のことを気にかけてくれているので最後にチームのトライアルを受けてみたら、と勧められたのです。サッカー道具を1日だけ返してもらって背水の陣で臨んだトライアルでしたが、なんとか狭き門を突破し、合格することができました。

当時チームが経営難だったこともあり、地元密着型に移行したことと若返りを図っていたことが後押ししてくれて、「トレーニー契約」という形ではありましたが、夢が実現しました。

奇しくも契約書にサインしたのはクリスマスイブで、その足で札幌の実家に帰省した僕は、「サッカーをやめる」と告げていた両親に契約書というサプライズプレゼントをすることができました。

年明けすぐにプレシーズンの合宿が始まり、プロサッカー選手としての第一歩を踏み出すことになりました。迎えた開幕戦ではルーキーながらスタメンに抜擢され、トレーニー契約からプロ契約への条件であった「900分出場」のノルマを開幕から10試合連続でフル出場することで最短で達成しました。結局、その年はコンスタントに試合に出続けることができ、充実したプロ1年目となりました。

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ブランメル仙台時代の伊藤=以下の写真はすべて本人提供

2年目になると、チームはJリーグ2部制開始に伴いJ2に参加することになり、クラブの名前も「ベガルタ仙台」に変わりました。チームもサポーターもJ1昇格をめざし、盛り上がりを見せていました。

しかし僕は、開幕直前に怪我をして出遅れ、さらにチームは不振で負けが込み、シーズン途中で監督が退任することになってしまいました。新監督が就任したと同時に、選手の補強も行われ、僕の出場機会が激減していきました。

その後の練習試合で結果を残し続け、夏にようやく、スタメン出場の機会がめぐってきました。しかし、そのチャンスをよりによって寝坊で逃してしまったのです。まだ学生気分が抜け切れていなかった僕は1カ月の謹慎処分を受け、自分のプロ意識の低さを深く反省しました。

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ブランメル仙台時代の伊藤(左から3番目)

謹慎処分が明けた後も出場機会は与えられず、シーズン終了後、契約更新はされませんでした。新たなチーム探しのため数チームのトライアルを受けましたが、契約できないまま年を越しました。一旦札幌の実家に戻り、アマチュアチームに入って、プロに返り咲くチャンスをうかがっていましたが、現実はそう甘くありませんでした。

その頃の僕はまだ、自分の売り込み方もわからず、待っているばかりで行動に移すことができず、なかなか状況は変わりませんでした。そのころ、仕事とサッカーを両立しながらプロを目指しているチームメートの姿に触発され、もう一度プロのピッチに立ちたいという思いが高まっていきました。サッカーで生きてきた人間は、サッカーで味わった悔しさをピッチで晴らしていくしかないのです。

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ベガルタ仙台時代の伊藤

そんな折り、サッカー雑誌のある記事に目がとまりました。シンガポールのチームが外国人選手を探しているというのです。大学3年生のときに家族旅行で訪れたこともあり、印象もよく、幼いときからホームスティで海外の子どもを受け入れたりしていたことから、海外生活への憧れも抱いていたので迷わず挑戦を決意しました。

シンガポールはグローバルな多民族国家で、急速な経済成長を遂げており、治安もよく、サッカーではちょうど「Goal 2010」という目標を掲げ、ワールドカップ南アフリカ大会出場をめざして国を挙げて取り組んでいた時期でした。そのため待遇もよく、各国から代表クラスの選手も招いて強化していました。

そうはいっても、2001年にシンガポールのチームと契約するまで紆余曲折がありました。次回は、そんな海外の洗礼を受けた契約の話をしたいと思います。
(構成 GLOBE編集部・中野渉)