危機の時代には信念を語れ 「鉄の女」サッチャーが現代に示す政治家像
そんな時代に、「鉄の女」として知られた英国の元首相マーガレット・サッチャーを読み解いた本が出た。著者の冨田浩司氏に、サッチャーとはいかなる政治家だったか。現代人はそこから何を学ぶかを聞いた。
新著『マーガレット・サッチャー政治を変えた「鉄の女」』(新潮選書)を出した冨田浩司氏(61)は『危機の指導者チャーチル』(新潮選書)も著した歴史家だが、本職は外交官。1981年に外務省に入省し、在英大使館公使、在米大使館次席公使、北米局長、駐イスラエル大使などを歴任した後、現在はG20サミット担当の日本政府代表を務める。本書は、外交に長年携わった立場ならではの視点から、指導者のあるべき姿を浮き彫りにした。
世界が前回大きく動いたのは、1980年代後半から90年代初めにかけてだった。米ソの急速な歩み寄りから「ベルリンの壁崩壊」、ソ連消滅に至る過程は、歴史の大転換となった。この時、先頭に立って世論を導いたのは、ソ連大統領ゴルバチョフ、アメリカ大統領レーガン、ドイツ首相コールといった歴史に名を残す指導者らであり、イギリス首相サッチャーもその1人に名を連ねる。
イギリスは当時、米ソに比べるとやや脇役的な立場にあり、サッチャーもそれほど派手な立ち回りをしたとは受け止められていない。しかし、サッチャーこそ実は流れの旗頭だったと、冨田氏は位置づける。
タカ派、保守強硬派、新自由主義者と評されるマーガレット・サッチャー(1925―2013)の統治は、何よりその大胆な経済政策「サッチャリズム」で歴史に刻まれている。自由化と民営化を推し進める経済改革は、「英国病」と言われるほど停滞していた経済を立て直して現在のイギリスの繁栄の基礎を築く一方、貧富の格差や失業の拡大も引き起こした。1982年にアルゼンチンとの間で起きたフォークランド紛争では、一歩も妥協しない姿勢を見せ、国民の大きな支持を集めた。
イングランド中部グランサムの食料品店経営者の家庭に生まれたサッチャーは、地方都市の下層中流階級の女性として異例の名門オックスフォード大学に進学する。学生時代から保守党で政治活動を始め、若くして政界入りし、政争の間隙を突いて党首に選ばれた。さらに首相にのぼり詰めた人生を、冨田氏は文献や音声記録を丹念に掘り起こしつつ、たどっていく。
その過程で冨田氏が注目したのは、それまでの研究で軽視されてきた彼女の信仰についてだった。サッチャーが生まれ育った家庭は熱心なメソジスト教会の信者で、サッチャー自身は政治家になった後に国教会に改宗するものの、宗教は彼女の理念と行動に大きく影響した。
「彼女にとって信仰は単に自らの内面の問題ではなく、彼女が打ち出した国家改革策の倫理的な枠組みをなすものであった」
同書はこう綴る。宗教とのかかわりから、サッチャー政治の中では「道徳」や「信念」が大きな要素を占めるに至った。
「重要と思えるのは、サッチャーが当時のイギリスが直面していた危機を政策論で片付けられない道徳的危機と位置づけていたことである」
その背景について、冨田氏は次のように説明している。
「彼女の人生を検証すると、キリスト教の信仰が政策の裏付けとなっているのがよくわかります。サッチャーはそうした精神性を積極的に発信した政治家であり、同時にその信念を現実の政策として実現させる能力を備えていました。そこに、政治家として成功する決め手がありました」
冨田氏によると、現実的な政治を好む英国で、信念だけで動く姿勢はあまり評価されないという。いかに巧みに振る舞うかが問われるこの国で、あえて「信念」を前面に掲げたところに、サッチャーの特徴があった。彼女以降、「信念に基づく」と語ることは、英国でも恥ずかしくなくなったという。それは、首脳個人が問題解決の先頭に立つという政治スタイルを定着させることにもなった。
そのように属人化した政治は、変化の時代に、特に外交面で威力を発揮する。事務方が普段の仕事を積み重ねるだけでは追いつかず、指導者のイニシアチブによる対応を迫られる場合が少なくないからだ。サッチャーやゴルバチョフ、レーガンが巨頭外交で活躍した冷戦終結期は、まさにそのような時期だった。
冷戦終結の主役は米ソ首脳だが、その道を切り開くきっかけとなったのは、書記長就任前のゴルバチョフによる1984年の訪英だった。サッチャーはこの会談でゴルバチョフを「一緒に仕事ができる男」と評し、これによって西側世界は彼の名を知った。彼女はいわば、ゴルバチョフをデビューさせる役割を果たしたのである。その後米ソの和解が進む過程でも、サッチャーはレーガンを支え続けた。冨田氏は「二人の特別な関係がなければ冷戦の勝利は覚束なかった」と綴っている。
一般的に経済の面から論議される「サッチャリズム」も、「社会のあり方、さらには国民の精神構造そのものを変革することを目指していた」と、冨田氏は論じる。「明らかなことは、サッチャリズムを経済政策の次元でとらえることの誤謬である。彼女の視点からは、当時のイギリスが直面する課題は本質的には道徳的な問題であり。その解決のためには道徳的な処方箋が求められていると見えたのである」
当時のイギリスは、公共サービスのみならず主要産業まで国有企業が担っており、福祉が充実する一方で、産業は国際競争力を失い、勤労意欲も低下していた。「英国病」と呼ばれた状態である。立て直しを図るサッチャーは民営化を強力に進めたが、これは単なる効率化にとどまらなかった。彼女は、現状を社会主義による退廃と捕らえ、自由を取り戻す道徳的な営みとして自らの取り組みを位置づけたのだった。
彼女が掲げた「信念」「道徳」「精神性」といった要素は、現代の政治で問われていることでもある。各地で台頭するポピュリズムの根底にこうした要素を見る専門家は多いからだ。『ポピュリズムとは何か』(板橋拓己訳、岩波書店)で知られる米プリンストン大学教授のヤン=ヴェルナー・ミュラーはGLOBEのインタビューで「ポピュリズムは、世の中を『均質で一枚岩の民衆』と『腐敗したエリート』の対立ととらえ、道徳的に正しい指導者が『真の民衆』を統率すべきだと考えます」と説明した。『アフター・ヨーロッパ』(庄司克宏監訳、岩波書店)を著したブルガリアの政治学者イワン・クラステフも、人々をポピュリズム支持に駆り立てる背景に「家族的な社会や道徳的価値観が崩壊する」といった危機感があると分析する。もちろん、サッチャー政治がそのまま現代のポピュリズムに結びつくわけではないか、両者の共通性と違いについては、一度整理してみる価値があるかもしれない。
冨田氏は、81年に外務省に入り、英国留学に続いて外交官としてロンドンに駐在し、サッチャー時代の英国を体験した。それは冨田氏の外交官としての原体験になっているという。
「彼女が国内に大きなインパクトを与える様子は、若い外交官としての私に大きな印象として残りました。ただ、当時はまだ、それが将来どんな形で残るのか、まだわからなかった。それから30年あまり経った今振り返ると、英国が彼女によっていかに変化したかを実感します」
政治の本質は、国家の役割と個人の役割の関係を整理することだと、冨田氏は定義する。英国は戦後、円満な労使関係に基づくコンセンサスの政治を続けてきた。これを、個人の自由を国民の営みの中心に据えたのがサッチャーだった。
「彼女は、国家と個人の境界線を大胆に引き直し、経済社会構造そのものを変革させました。その意味で、サッチャーはチャーチルを凌駕する指導者だったかもしれません」
今、英国は欧州連合(EU)からの離脱を前に混迷を深め、日本は少子高齢化社会を迎え揺らぎつつある。両国とも、国家と個人の関係が大きく変動しかねない時代に差しかかっている。
「個人それぞれが抱く不満を、国家は十分に受け止められなくなってきている。政治指導者は、国民との信頼関係をいかに築くか。政治が機能不全に陥る時代だけに、真摯に考える時ではないでしょうか」
冨田氏はこう話している。