最初の犠牲者は、年配の女性だった。綿畑でうつぶせに倒れ、背中には大きなツメ痕があった。その次は、年配の男性農民。左足を食いちぎられていた。
インド中央部の町パンダルカワダ。周辺の丘陵地帯では、もう2年以上も住民が次々とトラに襲われ、死んでいる。2018年の8月半ばには、幹線道路の近くでひどい傷を負ったバグジ・カナダリ・ラウトの遺体が見つかった。この地域で12人目の犠牲者だった。
DNA鑑定や隠しカメラの映像、目撃情報、足跡を重ね合わせると、1頭のトラにたどり着く。
「T―1」と名付けられた5歳のメス。他の地域も含めて、少なくとも13人の命を奪っている。人肉の味を覚えたとみられ、捕獲を何度も逃れている。
周辺の村々では、若者がたいまつや竹の棒を持って夜な夜な見回りに出る。被害をくい止められない森林の管理担当者に、怒って手を出したこともある。
専門家から見ても、1頭のトラがこれほど多くの人命を奪うことは珍しい。背景には、トラの縄張りと人間の生活空間とのせめぎ合いがある。
危機にひんしていたインドのトラの生息数は、急速に回復しつつある。それが、今度は新たな問題を生んでいる。トラが生きていくのに必要な縄張りが、人間に侵食されて十分に確保できないからだ。
そんな中で森林警備隊は、複雑な軍事作戦にも等しい方法でT-1を捕獲しようとしている。ゾウを5、6頭配置し、背中に乗った隊員が麻酔銃で取り囲むことができるように追い立てる。捕まえれば、動物園に送る方針だ。
しかし、肝心のゾウがまだきていない。野生生物の保護についても、インド特有のお役所仕事の複雑な縄張り争いがあるからだ。加えて、予算にもこと欠いているようだ。
一方で、被害は膨らむばかりだ。この8月だけで、3人もが犠牲となった。射殺しろという声が政治家の中からあがり始めると、今度はその適法性が問題にされた。野生動物の保護を求める活動家が射殺は違法だと訴え、インドの最高裁にまで持ち込んだ。
何もしないわけにはいかない森林警備隊は、ジャングルの木に監視員を配置するようになった。ところが、双眼鏡も与えられていないありさまだ。
「こんなに素晴らしい動物を殺そうとは、私も思っていない」とこの地域の森林管理当局のトップK.M.アバルナは釈明する。「でも、政治家や世論から、ものすごい圧力があることも分かってほしい」
ずるがしこい人食いトラと言えば、英統治下のインドを舞台にした作品で知られるイギリスの作家ラドヤード・キプリングの世界のように聞こえる。しかし、これは現実の問題であり、今のインドではますます深刻になっている。
トラを保護して増やす国策の成功が、ある意味であだとなった形だ。
絶滅から救うため、監視を強め、新しい技術を投入し、保護策を強化してきた。その結果、生息数は大幅に増え、2006年の1411頭が今では推定2500頭になった。世界中のトラの生息数は推定4千頭。その半数以上がインドにいる計算だ。
一方、インドは、人口も経済も急成長している。かつての過疎地には、新しい農園や道路がつくられ、パンダルカワダのように人口が急増した町が出現した。半面、トラの縄張りは、侵食され続けている。
トラは、指定の保護区からあふれ出るように、舗装された新しい幹線道路沿いや、多くの人が働く農園に現れるようになった。
新たな縄張りを確保し、繁殖相手を見つける。何よりも、エサを探さねばならない。それは、ウシ科のアンテロープやイノシシ、群れから離れた畜牛であり、ときには人間も対象となる。
インドでは、全土で森林が減っている。地図にある、細い緑の線はトラの移動回廊のはずだが、道路や農園の拡張でズタズタにされている。ところが、トラには縄張りが絶対に欠かせない。成長したオスのトラは、縄張り確保のためには母親でさえ殺してしまうことがあるほどだ。
1頭のトラには、何マイル(1マイル=1.6キロ)もの密林が必要だ。その広さは、エサがどれだけあるかにもよる。インドはこの10年間で、トラの保護区を20余も新設し、今では計50区を数えるようになった。しかし、その多くは四方を人間が開発した土地に囲まれている。
「この国のトラの保護については、成功談よりも混乱している事例の方が多い」とインドで最も著名なトラの専門家の一人、バルミク・タパルは批判する。「保護区がいくつもの島のように点在するが、それを結ぶ回廊が消えているか、十分な機能を果たせなくなっている。多くの保護区はトラが5頭にも満たず、保護区に値しないばかりか、トラがいないところすらある。しかも、当局は高慢で、他の国がどうしているのかを学ぼうともしない」
加えて、インドの多くの地域では牛肉生産が制限されており、これが状況をさらに悪化させかねない。ヒンドゥー至上主義を掲げる与党・インド人民党(BJP)が、崇拝の対象となる牛の食肉処理について、これまでのどの政権よりも目を光らせているからだ。このため、みすぼらしい、なんの役にも立たない牛の群れが、ものすごく増えてしまった。
いくつかの保護区では、今や区域外の方がエサが多く、トラをおびき出す要因になっている。
「保護区の外に出たら、牛がいっぱいいる」と環境学の教授でトラの専門家でもあるビラル・ハビブは語る。だから、トラはその近くに居続け、さまざまな問題を引き起こすようになると説明する。
T-1も、牛や馬を襲っている。ただ、なぜ人間をこれだけ狙うようになったのかは、よく分かっていない。
森林警備隊員は、T-1が生まれたころから観察している。母親は、T-1がまだ若いときに電気柵に触れて感電死している。電気柵はイノシシを退治するためにインド全土で張りめぐらされるようになり、野生動物を保護する上で新たな問題にもなっている。
T-1は、保護区内には居つかずに生きてきた。区域外にも、居住が許されないなど開発制限のある保護林が残されており、インドのトラの30%はこうしたところにすんでいると見られている。
そんな森林のはずれと接する農地で草取りをしていた農民が、T-1の最初の犠牲者となった。とくにこの地域では、用途の違う土地が入り乱れ、どこまでが農地で、どこから先が保護林なのか、見分けることが難しい。
森林管理当局の記録によると、T-1は人間を襲うと、その半数の肉を食べている。ノコギリで切られたように、膝から下を食いちぎられた女性。背中の肉をかみとられ、背骨がむき出しになった男性。傷口に残る唾液からDNAを調べ、同じトラによる被害の全容がしだいに浮かび上がってきた。
当局は2018年1月、T-1を射殺する手続きをとった。これに反対してムンバイの自然保護活動家が提訴。その後、T-1は子供を2匹産み、母親の死は子供たちをも危うくする状況になった。
このため、森林警備隊は、麻酔銃や網を使って生け捕りにしようとした。低木のランタナの茂みが密生し、節くれだったチークの枝が行く手を阻むジャングルに分け入り、捕獲を4回試みた。
「でも、賢くて、野生本能の塊のようだった」と先の地元森林管理当局の責任者アバルナは舌を巻く。茂みに隠れて姿を見せないか、見つけてもあっという間に逃げおおせてしまった。
T-1の縄張りは、約60平方マイル(155平方キロほど)。その中には村がいくつもあるが、当局にはさほど協力的ではない。射殺してしまわないことに怒り心頭の村民も多く、ジャングルへの道を封鎖したり、政策に反する独自の撃退策を立てたり、むしろ対立気味だ。
犠牲者が出るたびに、遺族には当局から弔慰金が支払われる。ときには、1万4千ドルにのぼることもある。保護の対象になっているトラに報復しないよう、少しでも不満を和らげる意味合いが込められている。
T-1の捕獲作戦で、新鮮な野牛の肉をしかけた檻(おり)を設置したときのことだ。すぐわきに、ほとんど歩くこともできない老人が陣取った。
「なんで、そんな危険なことを」とアバルナたちが尋ねると、「自分が死んだら、家族にお金を出してくれるのか」と逆に問い返された。
現地のそんな状況に加えて、法廷での争いもある。自然保護活動家は、T-1は子供を守るために行動しており、縄張りに踏み込んだ人が犠牲になっているだけだと「自衛論」を展開。T-1を麻酔で眠らせ、他の保護区に移すよう求めている(訳注=その後、インド最高裁はT-1の射殺を認めた。ただし、森林管理当局はこれを「最後の手段」とし、できるだけ生け捕りにすることを目指している)。
森林警備隊は、自動車を使うよりゾウの方が適していると判断しており、明日にもゾウが到着する状況になっていると語る。それでも、パンダルカワダ周辺の住民の恐怖は募り、忍耐も限界に達しようとしている。
「早く殺して」。村の小さな、薄暗い住まいで、ラシカ・ビシャルは涙を浮かべた。家畜の世話をしていた父親が、幹線道路の近くで襲われ、犠牲となった。「素晴らしい動物なんかじゃない。父を殺しているし、早く殺さないと、また犠牲者が出る」と娘としての心境を訴えた。
周りに集まった村民十数人も、みなうなずいた。昔はトラに襲われるような問題は起きなかったのに、今は違うと言うのだ。
「子供のころは、夜でも森林のまわりをよく歩いたもんだ」と長老のC.S.メシュラムは振り返る。「それが、どこからか、ひっきりなしに現れるようになってしまった」(抄訳)
(Jeffrey Gettleman and Hari Kumar)©2018 The New York Times
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