――2004年のスマトラ島沖地震で、最も被害が大きかった西部バンダアチェで被災されたそうですね。
両親ときょうだい4人を失いました。津波の備えがありませんでした。甚大な被害に途方に暮れましたが、各国が成果を競い合うように支援し、町は元通りになりました。「迅速な復興」という意味では成功と言えるかもしれません。でも、それは再び津波に襲われたら同様の被害に遭うかもしれない危ない状況のままだともいえます。
――政府と住民の連携はうまくいったのでしょうか。
被災の4カ月後に大統領直轄の復興再建庁(BRR)が発足し、世界中からの援助や支援活動を割り振り、海沿いを居住禁止区域にしようとしました。ですが、被災地ではすでに多くの家が建ち、生活が再建されていました。被災者には、とにかく住む場所が必要でした。海と共に暮らしてきた住民たちにとって、海と離れる生活は考えられない。彼らには彼らなりの理由や価値観があります。いつ訪れるか分からない災害に備えるのはあくまで未来の話。まずは目前の生活が大切なのです。
――アファンさんは被災後、日本への留学を決意しました。特に学びたかった点はどんなところですか?
アチェのような惨状を繰り返してはならない。災害が起こったら、どう被害を軽減するか。緊急時の政府の対応や復興の過程を、日本から学びたいと思いました。
参考になったのは、防災教育やハザードマップ作り、避難経路の確保などです。防潮堤などハード面の対策はもちろん大切ですが、予算が限られる中で日本のように莫大な費用はかけられない。むしろ、ソフト面の対策を採り入れるのが現実的だと感じました。
特に影響を受けたのは、コミュニティーのあり方。日本では高台移転や防潮堤建設を巡り、鍵になっていました。私はアチェの二つの村を比較しました。一つは国際的な支援によってすぐに復元された村。もう一つは、土地の区画や利用方法を住民たちで決めてから支援を受けた村です。道路はもっと広く、まっすぐにしよう。いがみあわないよう似たような家を建てよう。こんな議論を経て、今も多くの人が納得してその土地に住んでいます。
アチェには、村のリーダーと宗教のリーダーがいて、尊敬されています。今後、彼らを中心にコミュニティーで防災に取り組めたらと思っています。
─―日本とインドネシアで、災害に対する考え方の違いを感じたそうですね。
日本では、家族を失うと、なぜ助けられなかったのか、生き残ってしまったことに罪悪感を覚える人が多いと感じました。アチェでは、災害を「神からの忠告」ととらえ、そこからよりよい人生を生きようと考える人が多い。文化や宗教の違いも影響しているのでしょう。また、武力紛争で多くの犠牲者を出してきたアチェでは、何としても生き延びなければという思いが、とりわけ強いのかもしれません。
しかし、こうした考え方は精神面ではいいかもしれませんが、「天災=運命」と割り切ってしまうことで、備えへの意識が育ちにくいともいえます。
――防災意識を根付かせていく秘訣は何でしょう。
次世代につなげる教育だと思います。その一つとして震災遺構も有効です。アチェには、津波で内陸の民家の屋根へ乗り上げた漁船などが、今もそのまま置かれています。なぜこんな場所にあるのか、不思議に思いますよね?子どもたちに聞かれたら、「津波がこれを運んできたんだ」と答えればいい。言葉を尽くして説明するよりも分かりやすい。みんなで経験をシェアするのは大切だと思います。
ムザイリン・アファンMuzailin Affan シアクアラ大学助教
1970年生まれ。2004年のスマトラ島沖地震で被災後、防災を学びに東北大学に留学。地元バンダアチェの防災研究の第一人者として知られる。