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互助の伝統を生かし、身の丈に合った復興の姿 インドネシア

World Now 更新日: 公開日:
コアハウスを眺めるイカプトラ。1棟目(左)はレンガ、2棟目(中央)は竹も使われている=インドネシア・ジョクジャカルタ、本間沙織撮影

鮮やかな青や緑色のコンクリートの壁に赤茶色のレンガなど、違う素材でつぎはぎをしたような家が立ち並ぶ。「ほら、この家は3回拡張しています。こっちは去年より1棟増えている」
2006年、ジャワ島中部のジョクジャカルタを地震が襲った。7月上旬、被害が大きかった住宅街を地元ガジャマダ大学准教授のイカプトラ(55)と歩いた。

この地区では地震後、「コアハウス」と呼ばれる簡素な住宅が建てられた。18平方メートルと手狭だが、将来の増築を見越している。時間をかけ、お金に余裕ができたらこつこつと増やしていくというやり方だ。
人力車を引く住民のパック・ミコ(60)は、レンガより安価な竹やトタンで、家を3回拡張した。「本当は台所も風呂も室内にしたいが、お金がないから出来ない」

1棟目(左)は鮮やかな緑色、2棟目(中央)はレンガで造られている=ジョクジャカルタ

1人当たりの国民所得が日本の10分の1の新興国インドネシアでは、日本のような巨額なインフラ投資はできない。コミュニティーの力を生かして復興を進めてきた。
国際協力機構(JICA)によると、住宅再建のため、州政府などが10~15世帯からなる組合を作り、建築申請の通った組合ごとに支援金を渡した。分け方は組合で話し合い、コアハウスを建てた。週末、20~30キロ離れた地区から親戚や知人が訪れ、再建を手伝った。ジャワの伝統的な価値観「Gotong Royong(ゴトン・ロヨン)」という相互扶助の精神が生かされたという。

白い壁の1棟目(右)にレンガ造り(中央)の棟が続く=ジョクジャカルタ

防災研究のため、インドネシアを何度も訪れている関西国際大学教授の村田昌彦(62)は「避難所や仮設住宅に長期間住むことなく、生活するコミュニティーはそのままに、身の丈に合った復興ができる」として、日本でも生かせると考える。
住民主体の考え方のきっかけとなったのが、04年に20メートルを超える津波が襲った西部バンダアチェでの教訓だ。

津波の映像がネットで流れた直後、世界中から援助の手が差しのべられた。JICAによると、長く紛争が続いた地域で指揮系統が定まらない中、NGOらの支援で瞬く間に家が再建された。現地入りした政府が、海岸沿いに居住しないよう呼びかけようとしたときには、すでに多くの住民が住み始めていたという。

現地を訪れると、驚くほどたくさんの家が海沿いに並んでいた。津波で家も両親も失ったムルシダ(45)は「先祖代々の墓も仕事もある」。元妻と2人の娘が犠牲になった漁師ムスリム・ハナフィア(49)も「いつ来るか分からない津波より毎日の生活が大切」と話す。

2004年のスマトラ沖地震による津波で妻と2人の娘が亡くなった漁師ムスリム・ハナフィア=バンダアチェ

市街地から約20キロ離れた高台にある通称「ジャッキー・チェン村」。07年、中国赤十字会などの支援で約600棟の住宅を建てた。だが今は半数が空き家だ。地元シアクアラ大学助教のムザイリン・アファン(48)は「人々は住む場所と仕事の確保が優先で、その先にまで考えが及ばなかった」と話す。専門家は「アチェの復興は失敗」と言うが、住民らは生活という「現実」を選ばざるを得なかったとも言える。

市街地から離れた高台の通称「ジャッキー・チェン」村=バンダアチェ

ジョクジャカルタで建てられたコアハウスは、日本にも伝わった。建築家らによる支援組織が12年、宮城県石巻市の牡鹿半島にコアハウスを作った。国産のスギを使った建物(47平方メートル)で約700万円。短期間でできる廉価な家は漁師たちの生活再建に役立つと考えたからだ。福島県の南相馬でも集会所として建てられている。コアハウスは、住宅としてはまだ活用されていないが、石巻や南相馬では近隣住民の集会所として使われている。支援組織にかかわる東北大学大学院教授の小野田泰明(55)は「制度の違いなど課題はあるが、住宅にも広げたい」と話す。(本間沙織)
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〈ジャワ島中部地震〉2006年5月、ジャワ島中部のジョクジャカルタで直下型地震が発生し、5000人以上が亡くなった。04年には、スマトラ島沖の大地震とそれに伴うインド洋津波の影響で22万人以上の死者と行方不明者を出した。スマトラ島沖では、09年にも1000人以上が犠牲となる地震が発生。大規模な災害が頻発している。