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被災地発のソーシャルビジネス 台湾で花開いた

World Now 更新日: 公開日:
福島県桑折町の農家、羽根田幸将を特集した「東北食べる通信」の7月号と白桃。毎号旬の食べ物が届く=角野貴之撮影

「生産者と消費者の分断を乗り越える」

「最初に始める人は苦労する。だけどやめないで。仲間は日本にいっぱいいるんだから」
6月中旬、東京・神保町のビル。「東北食べる通信」編集長の高橋博之(44)が熱く語り出すと、台湾から来日した3人の顔に笑みがこぼれた。

3人は高橋が2013年7月に創刊した「食べる通信」の台湾版を担うメンバー。高橋が掲げる「生産者と消費者の分断を乗り越える」というビジョンに共感。17年から台湾の4カ所で創刊された台湾版食べる通信をボランティアでサポートしている。
「台湾版食べる通信始動者」を名乗る楊璨如(ヤン・サンル、40)は「日本と台湾がお互いに学びあいながら食べる通信を拡大していければ」と声を弾ませた。

台湾版食べる通信をサポートする楊璨如(右から2人目)たちと談笑する高橋博之(左)=2018年6月20日、東京・神保町、渡辺洋介撮影

11年3月、人口減少にあえいでいた三陸の過疎の町を大津波が襲った。産業の主力だった水産業をはじめとした一次産業は壊滅。農家や漁師はその後も減り続け、産業の衰退はさらなる人口減を招く悪循環に陥った。

当時、岩手県議だった高橋は、震災から3日後、救援物資をトラックに満載し、被災した岩手県大槌町に入った。避難所となった小学校を拠点に、物資の運搬や調整に走り回る毎日を送った。夜になると、校庭でたき火を囲み、漁師たちから話を聞いた。震災前から高齢化と後継者不足に悩んでいた漁師たちは、津波で「とどめを刺された」と語った。

一方、都市部から駆けつけたボランティアたちが生まれて初めて農家や漁師と出会い、都会では得られない「生きる実感」を取り戻しているようにも感じた。自然への畏れを感じながらも、恵みに感謝しながら生きる地方の生産者。便利さと引き換えに自然との接点を失った都市の消費者。両者がつながれば、新しい地方と都市の関係性を生み出せるのではないかと直感した。

山形県高畠町の有機農家、星寛治(左)から体験を聞く高橋博之。星は1970年代に消費者と提携して生産者が再生産可能な価格で直接取引する取り組みを始めた=2016年7月16日、渡辺洋介撮影

高橋はその後、復興を目指して知事選に立候補したものの落選し、政界を引退。自ら一次産業に携わろうと、宮城県石巻市の港町のカキ養殖漁師を手伝うことにした。目にしたのは、都会のオイスターバーでは1個数百円で売られるカキが、1個30円の卸値しかつかず、生活のために赤字でも出荷する漁師の姿だった。
フェイスブックで発信したり東京のレストランに出向いたりして、消滅の危機にある故郷を守るため、借金をしてまで養殖を再開したことを伝えた。生産者の苦労を知った消費者はこの漁師のファンになり、3倍の値段でもカキを購入してくれた。

やりとりを通じて高橋は確信した。地方の一次産業の疲弊の根本的な原因は、消費と生産の現場が離れすぎて「ひとごと」になってしまう「消費者と生産者の分断」にある。「早く、安く、大量に」という経済効率を最優先した消費社会の裏側で、生産者が作った食べ物は買いたたかれ、農家や漁師は減り、地方の疲弊に拍車がかかる。そして、食べ物を値段だけで価値付けし、作り手の苦労や生き様を知らないまま消費していた自分もまた分断をあおる「加害者」だった。

ならば両者の「顔の見える関係」を築こう。震災直後、地方の生産者と都市の消費者が出会って支え合ったような関係を、平時でも生み出す回路をつくることをめざした。「顔が見えなければ買いたたける。だけど友達のものなら買いたたけない。市場を通じた競争とは距離を置いた、強い一次産業が生まれると思った」。

「食材はおまけ、主役は作り手」 逆転の発想

日本食べる通信リーグの会議であいさつする高橋博之=2018年6月20日、東京・神保町、渡辺洋介撮影

高橋の訴えに、東北の復興を支援していた起業家やNPO法人代表、デザイナー、コピーライター、大学教員が集まった。専門知識を社会貢献に生かす「プロボノ」の実践者たちと何日間も議論し、ひとつの答えにたどり着いた。食材を買い求めることが目的の一般的な食の宅配サービスとは発想を逆転し、生産者の物語が主役で特集した食材がおまけとしてついてくる食べ物付き情報誌だった。

「東北食べる通信」と名付け、震災から2年半近くたった13年7月に創刊した。産地から届く段ボールをあけると、大ぶりなA3判オールカラーの情報誌が届き、生産者の人柄や哲学、苦労が16ページにわたって綴られ、少量の食材がついてくる。

今まで取り上げたのは、震災をきっかけに養殖イカダを3分の1に減らすことに奔走し、持続可能な養殖漁業の国際認証を日本で初めて取得した宮城県南三陸町の漁師。「きつい、汚い、格好悪い、稼げない、結婚できない」といった「5K産業」という農業のイメージ刷新をめざす福島県西会津町の女性農家。送料込みで2580円。取材、執筆は高橋自ら毎号手がける。編集スタッフは7人。情報誌をきっかけに生産者と共感する購読者がSNSでつながり、直接食材を取引できる関係をめざした。

購読者たちは、情報誌を読んだ後、食材を口にする。ある読者は、殻付きのカキの身をとるために家族総出で格闘し、とれたての赤色の生ワカメをゆでると緑色になることに感激した。食べ終わると、フェイスブック上の購読者グループに届いた食材で作った料理の写真を投稿し、「素晴らしいカキをごちそうさまでした」「ありがとう」とコメントする。普段は孤食になりがちな一家が食卓を囲めたことを喜ぶ様子や、苦手な食材でも「初めておいしく食べられた」と感想が寄せられた。生産者もおすすめの料理法を紹介したり、漁の様子を撮影した動画を配信したり。最初の1カ月だけでSNS上のやりとりは300件を超えた。

長期休暇になると、購読者がSNSでつながった生産者のもとを訪ね、リアルな場でも交流するようになった。生産者を都会のレストランなどに招き、購読者と種まきや稲刈りといった生産現場の様子を話す対面の場も設けた。購読者は1年半で定員の1500人になった。高橋が描いた、生産者と消費者が支え合う「強い一次産業」の芽があちこちで生まれていった。

農山漁村の疲弊は被災地だけの問題ではなかった。同じように一次産業の衰退に悩む地域から創刊を目指す声が続々と寄せられた。高橋は14年4月、一般社団法人「日本食べる通信リーグ」を創設した。ノウハウを共有しながら仲間を増やし、各地で創刊が相次いだ。いまは全国34誌に広がり、購読者は約1万人を数える。

1通のメールが開いた世界の扉

「『食通信』という価値と思いをもっとたくさんの人に繋げていきたいと考えています」。16年10月、高橋に1通のつたない日本語のメールが届いた。台湾で都市計画や地方観光を手がける会社に勤める楊だった。

楊は16年7月、台湾の書店で高橋の著書「だから、ぼくは農家をスターにする」の中国語訳を手に取り、「感激した」。楊自身も台湾の農村出身。都市と地方の格差が広がり、故郷の生産者が困窮している姿を見ていた。

高橋のビジョンは、そんな楊の胸を打った。「不思議な窓が開いた」という楊は、すぐに自費で150冊を購入し友人に配った。台湾では1999年に2400人以上が犠牲となった台湾大地震がきっかけで、地方の過疎化が加速していた。

17年2月、楊の招きで高橋は台湾に渡った。4日間で7カ所を講演してまわった。会場は立ち見客がでるほど満席になった。寄せられる声は、地方の高齢化や過疎化、産業の衰退。そして、生きる実感の無さ。日本で聞くそれと「驚くほど一緒」(高橋)だった。

台湾の生産者と意見交換する高橋博之(右から2人目)

17年9月の「中台湾食通信」を皮切りに、計4カ所で台湾版の食べる通信が創刊された。台湾北東部の宜蘭県に住む廖冠維(リョ・カンイン、26)は、地元の人口流出に危機感を覚え、今年1月創刊の「東台湾食通信」に関わった。「地域の文化や食材を発信したい」と創刊号では、放し飼いで育てられた鶏と生産者を特集。生産者から「立派なものができた」と喜ばれ、購読者からも「おいしかった」と感想が届き反響の大きさに驚いた。

台湾版食べる通信の購読者は計約600人。まだ緒に就いたばかりだが、購読者も特集する生産者も少しずつ増えている。台湾版の食べる通信をサポートする台湾在住の日本人、月足吉伸(46)は「台湾、さらにはアジア各地に一歩ずつでもいいので拡大していけるようにしたい」。
高橋は「東アジアも含めて(創刊数を)100の大台にのせて、お互いに切磋琢磨したい」と話す。

台湾版の食べる通信のひとつ「中台湾食通信」の表紙と特集された農産物

「被災地だからこそ世界を救うモデルが生まれる」

全国各地の食べる通信の購読者数は約1万人。特集する農家や漁師が手がける食材の生産量には限界があり、むやみに購読者を増やすことが難しい。

より多くの消費者と生産者をつなげるために、高橋は2016年9月、生産者と消費者がスマホひとつで直接つながって食材や感想をやりとりするアプリ「ポケットマルシェ」を始めた。大量生産に向かなかったり規格外になりやすかったりして通常の流通にのりにくい食材を農家や漁師から直接購入できる。「スマホの中のマルシェ」をうたうサービスだ。ユーザー登録する消費者は1万2千人、生産者も700人を超えた。18年7月からはタイ・バンコクの百貨店に特設コーナーを設けた。メルカリやユーグレナなどから計1億8千万円の出資も受け、事業の規模を広げている。

創刊から5年。高橋は「課題先進地になった被災地だからこそ世界を救うモデルが生まれる」と訴え続けてきた。だが、すべての食べる通信が順調なわけではなく、思うように購読者を増やせず赤字のところも少なくない。「生産者と消費者の分断を乗り越える」という目標に対する到達点は「山の一合目にも登っていない」と高橋自身も打ち明ける。

それでも、高橋のビジョンに共感した人々が集まって生まれたうねりは、国境を越えた。市場を通じたお金だけのやりとりでは実現できない、豊かさの価値を共有する都市と地方の新しいコミュニティーが小さくても確かな形で広がり始めている。

高橋が見据えるのは100年後の未来だ。「都市と地方が混じり合う唯一無二の一点が成立する社会を3世代100年かけて作り出したい。そこに命を支え、心のよりどころとなる新しいふるさとが生まれる」と話す。(渡辺洋介)

台湾から学生次々

宮城県南三陸町は東日本大震災の津波で、壊滅的な被害を受けた。約18000あった人口が今は4分の3になった。

この7月、台湾の嘉義高級中学から、日本語や日本のポップカルチャーが大好きな男子高校生20人が2週間の研修旅行に来た。町内5家庭がホームステイに協力し、ペンションを営む西條りき子(67)は6人を受け入れた。11泊の最後の晩は親戚やその子どもらも集まり、BBQやスイカ割り、花火で盛り上がった。「自分の子と一緒。みんないい子たち」と西條。翌日のお別れの式では、あいさつに立つ前から、泣きじゃくる男子高校生もいた。

研修旅行で訪れた宮城県南三陸町でホームステイ先の西條りき子と別れを惜しむ台湾の高校生=AbemaTV提供

全壊した町唯一の総合病院の再建にあてた約56億円のうち、22億円は台湾からの義援金だった。その縁で、町と台湾の交流が始まった。

主に防災学習を目的とした修学旅行で訪れた台湾の高校生は、2015年末以降で16校約600人。嘉義高級中学のように日本語学習を主とした研修旅行、大学生によるインターンシップでも多くが町を訪れ、ホームステイなどで地元の人たちと交流を深めている。町の経済を押し上げるほどの人数ではないが、いずれインバウンド観光客の増加や経済交流にもつなげようと、町は考えている。

交流を支えたのは佐藤金枝(51)。24年前に台湾から留学で来日し、この町の男性と結婚して住み続ける。台湾の学校を回って町を売り込み、台湾との窓口を一手に引き受けてきた。「震災前はただの外国人だった。いま台湾人として、母国とこの町をつなぐために働けるのはありがたい」

研修で宮城県南三陸町を訪れた台湾の高校生(右から2人目)と記念写真に収まる佐藤金枝(右)と陳忠慶(左)=浅倉拓也撮影

台湾でのプロモーションは、高校だけでなく小学校や中学校にも広がる。少子高齢化や過疎化など、台湾がまさに直面している課題を大学生らが学べるような研修をしたいという要望も、台湾の研究者から上がっているという。

6月下旬、町観光協会が初めて台湾人の正職員を採用した。台湾の大学を卒業し、日本語能力試験で最高レベル「N1」に合格した陳忠慶(24)だ。2年前に、協会で2カ月間のインターンシップをし、この土地と人が好きになった。「新しくつくる町なので、将来性があると思う」(浅倉拓也)