Peter Nichols 『A Voyage For Madmen』
1968年、サンデータイムズ紙が単独無寄港世界一周ヨットレースを主催した。衛星通信もGPSもない時代の過酷なレースであり、現在ならば60日前後で回れるが、当時は1年がかりだった。
本書『A Voyage For Madmen』では、参加者9人の戦いぶりが、各自の履歴をまじえて語られる。9人中8人が脱落・遭難・死亡し、312日という記録で優勝したノックス=ジョンストンは勝者というよりは生き残りに近い。彼の活躍が本書の主軸ではあるが、深い感動を覚えるのはモワテシエとクロウハーストという2人の参加者の話だ。
モワテシエはベトナム生まれのフランス人。超一流の船乗りで、超速で飛ばし続ける彼の優勝は間違いなかった。が、勝利を目前に彼は疑問に襲われる。プリマスから出港しプリマスへ帰港することに何の意味がある? 最速で成し遂げることがなぜ名誉なのか? 大西洋を北上して英国への帰途上にあった彼は、突如進行方向を東に変えてインド洋へ向かう。試合放棄である。「私はこのまま南太平洋をめざす。ヨーロッパよりも太陽と平和のある世界へ。『記録』などに意味はない。私がこのまま航海を続けるのは海にこそ幸せがあり、私の魂を救うことができるからだ」。彼はサンデータイムズ紙宛てのメッセージを書きつけた紙つぶてを、通りかかった英国籍タンカーの甲板に向けてパチンコで投擲した(彼が得意とする通信手段)。
一獲千金を狙ったのは英国人技術者クロウハースト。彼は電子事業の失敗打開のためにレースに参加した。出航直後は困難続きだったが、インド洋からぐんぐんスピードをあげて大西洋へ。だがその速度に疑いを抱く者がいた。66年に単独世界一周を成し遂げた英国人チチェスターである。実はクロウハーストは英国から南下したあとずっと大西洋にとどまり、ブラジル沖をうろうろしながら偽の電信を打っていたのである。そして、頃合いを見計らって北上し賞金5000ポンド(現在価値で約3000万円)を獲得しようと企んだ。だが、一世一代の大嘘も上陸後ログブックを点検されればばれる。罪悪感と矜恃のはざまで彼は海に投身する。残された妻と3人の子どもを憐れんだ勝者ノックス=ジョンストンは、賞金全額を寡婦へ手渡した。
「いつ白人になれるの?」少女の無邪気で残酷な問い
Reni Eddo-Lodge『Why I'm No Longer Talking to White People About Race』
「私がもう白人相手に人種の話はしない理由」、というこの長いタイトルがすでに本書のエッセンスを語っている。もちろん焼けつくような怒りも透けて見える。著者はナイジェリア系のロンドン生まれ29歳のジャーナリスト。もともとは彼女が個人的なブログに同じタイトルで書いたエッセイにニューヨークタイムズ紙が着目し、本の執筆を依頼してきたのが始まりだった。
個人的体験は、歴史的文脈へ流し戻すことによって、先達の言動に救われて通時的な意義が明確になり、同時代の社会構造を解き明かす有効なツールだと判明したときに、普遍性を持つ――だけでなく、むやみと面白い。本書はまさにそういう本だ。彼女は子どものころ、「私が白人になれるのはいつ?」と母親に尋ねたという。童話の世界にしてもテレビの画面にしても、正しく優れた人間はすべて白人であり、彼女自身も自分は良い子だという自信があったから、いつか「白い人」になれると確信していたのだ。この幼児期の無邪気だけれど胸を打つエピソードは、そのまま見事に本書の主要テーマであるところの構造的人種差別(structural racism)への気づきにつながってゆく。
構造的人種差別。すなわち、公共の場での差別、罵詈雑言、侮蔑といったローカルで単発的な差別現象の非難ではなく、そもそも社会の構造が人種差別を前提にできあがっていることの認知が重要だという立場である。この認識から本書のタイトルが導き出されたともいえる。他者(マイノリティ)を犠牲にすることで利益が産み出される構造に安住しそこから利益を受けている人々(白人)に、その構造を糾弾する議論を持ちかけても無意味だ、という意味なのである。もちろんこのタイトルは著者が暴発的に書いたブログのタイトルであって、「無意味」だから白人には何を言っても仕方がないという諦めの書ではない。「歴史」「システム」「白人特権とは?」「黒人惑星への恐怖」「フェミニスト問題」「人種と階級」という各章で英国社会に瀰漫する人種差別の諸様相を、焼けたナイフのような文章でえぐりだしてゆく。読みながら下線を引く個所が多くて困惑し、自分の無知をガツンとやられる喜びに間欠的に襲われた。英国における有色人種差別問題に的を絞った本ではあるけれども、既得権益や差別に対する戦い、という意味では、他の社会、他の国にもあてはまる普遍的分析やヒントがそこかしこに転がる刺激的な本だと思う。例えば次のような文章はどうだろう。
「表現の自由とは、反論を拒否して言いたいことを述べることではない。人種差別的なスピーチや考え方を発言するのであれば、おおやけの場所で健全な討議が伴わなければいけない。ところが差別的言辞を弄する側は得てして討議を怖がり、そうした場を拒否する」
もう白人相手には話はしない、と拗ねたタイトルだったけれども、ここ数週間ベストセラー入りしたままの本書は無数の白人に読まれたはずだ。各紙、各界のレビューもほぼ絶賛に近い。思考を刺激し、読了後は友人をつかまえて議論をしてみたくなるタイプの典型的な良書。
いっそ言葉が通じなければ
Jon Sopel『If Only They Didn't Speak English』
昨年2月にトランプ大統領がおこなった最初の単独記者会見でコケにされた記者がいた。「どこの記者かな?」「BBCです」「またぞろかぐわしいのが来たな」「不偏不党、公明正大の」「CNNと似たようなもんだろ」「(質問を始める)」「(さえぎって)待て待て、あんたが誰かはわかってる」
このときの記者が本書の著者ジョン・ソペルである。頭にきて意趣返しに書いた本、というわけではないけれど、たぶん、英国と米国はまったく違うという点を声を大にして喧伝したがっているジャーナリストのチャンピオンであることは間違いない。ある時期までは英国人ですら夢の国と仰ぎ見たアメリカが、極端で狂信的な分裂社会に落ちてしまったことを嘆くエレジーであるとも言えよう。本書を構成する10章は「人種」「愛国心」「神」「銃」「不安」「真実」といった英米それぞれの価値観の差異を際立たせるにはうってつけのテーマから成り立ち、これらの解釈を通じ、トランプ大統領の治政がいかに奇妙なものかを訴える。
原題の意味は「彼らが英語を話さないでくれたらなぁ」というものだが、その心は、「アメリカ人が英語を話すものだから、なんとなく英国の兄弟みたいに思ってしまうけれど、いっそのこと英語なんか話さないでくれるといい。そしたらあれは話の通じない、価値観もまるで違う外国なんだと割り切れて、よりよく理解することができるのに」ということである。
英国のベストセラー(ペーパーバック・ノンフィクション部門)
8月11日付The Times紙より
『 』内の書名は邦題(出版社)
1 This Is Going to Hurt: Secret Diary of Junior Doctor*
Adam Kay アダム・ケイ
産婦人科医を6年務めたあとコメディアンになった勤務医秘密の日記
2 The Billion Dollar Spy: A True Story of Cold War Espionage and Betrayal
David Hoffman デイビッド・ホフマン
冷戦下におけるソ連人スパイ・トルカチェフとCIAの密謀を描く
3 Sapiens: A Brief History of Humankind
『サピエンス全史』(河出書房新社)
Yuval Noah Harari ユヴァル・ノア・ハラリ
人類の進歩を奇抜な切り口でさばく刺激的な本
4 The Pebbles on the Beach
Clarence Ellis クラレンス・エリス
浜辺や川べりに転がる形状も色彩もさまざまな小石の由来を探る
5 A Voyage For Madmen
Peter Nichols ピーター・ニコルス
1968年に行われた単独無寄港世界一周ヨットレースの異様なドラマ
6 Travellers in the Third Reich
Julia Boyd ジュリア・ボイド
ナチスが台頭しつつあるドイツを旅した外国人たちの奇妙な体験
7 Why I’m No Longer Talking to White People About Race*
Reni Eddo-Lodge レニ・エド=ロッジ
英国社会でレイシズムを語ることに疲れた黒人ジャーリストの告発の書
8 If Only They Didn't Speak English: Notes From Trump's America
Jon Sopel ジョン・ソペル
BBCの記者が英国人の観点から、アメリカのトランプ現象を解析する
9 The Shortest History of Germany
James Hawes ジェイムズ・ホーズ
英国人小説家が200ページにまとめた畏怖と畏敬のドイツ史
10 Homo Deus
『ホモ・デウス』(河出書房新社)
Yuval Noah Harari ユヴァル・ノア・ハラリ
『サピエンス全史」の続編。今回は将来に目を向け人類の未来を探る