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ロシアにとっての「広島・長崎」 ヴォルゴグラード

迷宮ロシアをさまよう 更新日: 公開日:
「ママエフ・クルガン(ママイの墳墓丘)」と呼ばれる丘に立つ「母なる祖国像」。85メートルに及ぶ巨大像で、左下の人間が豆粒のように見える(撮影:服部倫卓)。

人類史上最大の市街戦

日本ではしばしば、「沖縄戦が、太平洋戦争で唯一の、本土地上戦だった」ということが言われます。考えてみれば、第二次大戦におけるソ連の「大祖国戦争」、すなわちナチス・ドイツとの激闘は、ほぼ全面的にソ連本土における地上戦でした。

ソ連国民が味わった辛苦は、察するに余りあります。そんな中でも、人類史上最大と言われる市街戦が戦われ、ソ連・ドイツ双方に膨大な犠牲者を出したのが、「スターリングラード攻防戦」です。

スターリングラードは、現在はヴォルゴグラードに名前を変え、ワールドカップ(W杯)ロシア大会の開催都市の1つにもなっています。日本代表の第3戦、ポーランドとの試合会場がここです。ヴォルゴグラードは大都市とはいえ、今日のロシアの経済やサッカーにおいて、それほど存在感が大きいわけではありません。そんな街が開催地に選ばれたのは、やはり当地が大祖国戦争の苦難と栄光を象徴する聖地であることと無関係ではないでしょう。

スターリングラード攻防戦記念博物館のジオラマ(撮影:服部倫卓)。

スターリングラード攻防戦のおさらい

ロシア南部、ヴォルガ川の下流域に位置する工業都市が、ヴォルゴグラードです。帝政ロシア時代にはツァリーツィンと呼ばれていましたが、1917年の社会主義ロシア革命直後の内戦期に、まだ中堅幹部だったスターリンがこの街で反革命派の掃討に活躍したことから、同氏の名前をとって1925年にスターリングラード(スターリンの街)と名付けられました。

1941年6月に勃発した独ソ戦では、ドイツ軍の奇襲に圧倒され、緒戦でソ連軍は敗走を続けました。しかし、ドイツはモスクワ攻略には失敗し、戦線は膠着。戦争長期化を覚悟したヒトラーは、ソ連南部のコーカサス地方を占領して、バクーなどの石油資源を奪おうと考えました。

そこで、ブラウ作戦を発動し、1942年6月からソ連南部への攻勢をかけました。その一環として、軍需産業の集積地であり、ヴォルガ川などの交通の要衝でもあるスターリングラードの攻略を目標に据えました。これをソ連赤軍が迎え撃ち、人類史でも屈指の凄惨な戦いへとなだれ込んでいくのです。

1942年6月から11月半ばまではドイツ軍が圧倒し、スターリングラード全域を占領するまであと一歩のところまで迫りました。ドイツ軍による包囲網が狭まる中でも、ソ連の最高指導者スターリンは、自らの名を冠した街の死守を命じたため、これが民間人を含む犠牲の拡大に繋がりました。

ただし、その間もソ連は着々と反撃を準備していました。赤軍は11月後半から大反撃に転じ、ドイツの主力第6軍の逆包囲に成功。ドイツの側も、ヒトラーが現地司令官のパウルスに降伏を許さなかったので、退却が遅れ、犠牲者が膨れ上がりました。

1943年1月末にはついにパウルスも敵軍に投降、散発的に続いたドイツ軍の抵抗も2月までに止みました。史上最大の市街戦はソ連軍の勝利に終わり、これを機にヨーロッパ全体の戦局も連合軍優位に傾いてくことになります。

思えば、このヴォルガ河畔の街にとって、「スターリン」の名を冠したことが、不幸の始まりでした。スターリンとヒトラーという2人の冷酷な独裁者が、象徴的なこの都市に固執したことが、未曾有の人的被害をもたらしました。

スターリングラード攻防戦を語る際に、しばしば「建物一つ、部屋一つを奪い合う戦い」だったと言われますが、そんな苛烈な市街戦が半年以上も続いたのです。ドイツ軍・枢軸軍の死傷者は約85万人、ソ連赤軍のそれは約120万人とされています。スターリングラードの一般市民も、少なくとも20万人が亡くなったと言われています。

スターリンが1953年に死去してしばらくすると、生前の独裁・専横が批判されるようになりました。スターリングラードも、1961年に現在のヴォルゴグラード(ヴォルガの街)に改名されました。ただし、内向きな愛国心が横行する最近のロシアでは、街の名を再びスターリングラードに戻すべきだという主張が強まっています。2014年にはプーチン大統領が本件に関し、「市民が住民投票で決めればいい」と発言しており、少なくとも反対ではない立場をほのめかしています。

ママエフ・クルガンに灯る「永遠の火」(撮影:服部倫卓)。

日本代表にとっての運命の地に

筆者は以前から、「もしも2018年のW杯でロシアとドイツが対戦し、しかもその会場がヴォルゴグラードなどということになったら、かなりスリリングな状況になってしまうな。もしかしたら、その頃には、名前がスターリングラードに戻っているかもしれないし・・・」と、気を揉んでいました。

しかし、ロシアもドイツもヴォルゴグラードで試合を行わないことは、もう確定しています。また、ロシアとドイツの対戦があるとしたら準決勝以降であり、実現する可能性は高くなさそうです。

その代り、ヴォルゴグラードは日本代表にとっての運命の地になりました。第3戦を迎える時点で、日本が決勝トーナメント進出に向けて良い位置につけており、強敵ポーランド相手にひるむことなく戦うことを願いたいものです。

日本VSポーランド戦を観戦しに、少なからぬ数の日本人サポーターがこの街を訪れることになると思います。ヴォルゴグラードは、日本にとっての広島・長崎のような位置付けの街であり、実際にも広島と姉妹都市になっています。観戦のかたわら、ぜひスターリングラード攻防戦記念博物館も見学し、戦争ではなくサッカーで国同士がぶつかり合う平和な時代のありがたみをかみしめたいものです。