それにしても、今度の出張は長かった。ハノイから飛行機と船に乗ってフィリピンで殺人事件の取材をしたあと、シンガポール経由でカンボジアへ。「中国の影響力がわかるような写真」がとれる場所をさがして、うろうろ歩き回った。一年で一番暑いといわれる4月のカンボジア。肌はじりじりとやけ、日焼け止めをぬってもあまり効果はない。ほっぺのシミは、東南アジア暮らしのこの2年弱でくっきりと濃くなった。
ベトナムの自宅に帰ったのは出張に出てから9日後の深夜。いつもなら「おかあさんおかえりー!」と走ってくるはずのポコはとっくに寝ている。ポコの横で寝ていたおとっつあんが眠そうに起きてきて、「おかあさんが帰ってきたらあっちの部屋にいってといわれた」と別の部屋へ移動して行った。ひとりっ子のポコは、父と母とで一緒にいる時間が偏らないように、バランスをとっているみたいだ。
私が朝日新聞のハノイ支局長として、ベトナムの首都ハノイに来たのは2016年8月のおわり。支局長といっても記者は私ひとり、ベトナム人の助手がひとりの小さな支局だ。海外で記者の仕事をしたいと思っていた私の願いが、この国でやっとかなった。
いつか東南アジアで仕事をしたい、と思ったのは、米国がきっかけだったのかもしれない。高校生のときに米国に10カ月ほど留学した。思うところ多く、帰国するころにはアジアに興味を持ち始めていた。大学4年生のとき、自由に使える奨学金をもらって今度は10カ月フィリピンに留学。フィリピンで生きてきた日系の人たちと出会い、日本はこんなに他のアジアの国々のお世話になってきたのか、日本とアジアとの関係って、よくいわれてきたのとは違う語り方があるのではないか、と感じた。
98年に朝日新聞社に入社して鳥取支局へ。警察や市役所の取材をしながら、「将来はマニラ支局に……」という希望をそっと提出していた。だが「そっと」すぎて社内の誰にも気づいてもらえなかった。ある日、同僚にいわれた。「鈴木さん、もうマニラ支局ないよ」。えーっ。閉鎖されているのも知らないほど、海外特派員という仕事は現実味のない話だった。
その後、大阪本社の経済部で記者をしていたときに知り合ったのが、同業他社の記者だったおとっつあんだ。同じころに東京に異動し、8年ぐらい一緒に暮らし、私が38歳のとき、念願だった長男のポコが生まれることになり、結婚した。
保育園が見つからず1年と少し休職して、日曜版のGLOBE編集部に復帰した。朝8時に電動自転車の後ろにポコを乗せ、保育園に送って出勤、がーっと取材や原稿書きをし、自宅から電動自転車をダッシュでこいで、午後7時15分の閉園時間に滑り込みセーフで迎えにいく。そのままスーパーで買い物をして、簡単なうどんやお鍋なんかをつくっては、ポコと食べたものだ。もともと、いつまでも会社に残ってだらだら原稿を書くのが好きなタイプだったのに、ポコが寝てからの深夜か明け方にしか、原稿に集中できない毎日だった。
それでも、海外出張の機会が多い編集部では、オーストラリアや米国などに1~2週間ほど出張する機会に恵まれた。おとっつあんが仕事のときは、私の実家である埼玉の両親や、大阪の義母がかけつけて子育てを助けてくれた。ハノイに赴任する直前までいた国際報道部では、泊まり勤務のときや、大地震が起きたネパールへの出張を希望したときも、家族にいつも助けられた。
「もし海外で仕事ができるなら一緒にいくよ」。特派員の夢が、もしかしたらかなうかもしれないというとき、おとっつあんは言った。職場の再雇用制度が利用できる可能性をふまえ、おとっつあんは長年勤めた新聞社をいったん退社した。
2016年の8月下旬に私が先にハノイに赴任し、その2カ月後、当時4歳になって間もなかったポコとおとっつあんがハノイにやってきた。家族3人のハノイぐらしはこうして始まった。
ハノイ支局の担当はベトナムとカンボジア、フィリピンという、とてもおもしろい国々だ。私は冒頭のように、月の半分ほどはどこかに出張している。ハノイにいる日は、ポコをお風呂に入れたり、お皿洗いをしたりはするが、料理は完全におとっつあんまかせだ。しかもこの人は料理がうまい。
おとっつあんがどこからか材料を買ってきて作る「鶏レバーと砂肝とハツのショウガ煮」は、私が選ぶ2018年おとっつあん料理ナンバーワン。さばきたてが流通しているからだろう、ベトナムは鶏肉がとてもおいしい。このほかにも、おとっつあんがつくってくれるのは、炊き込みごはん、肉じゃが、酢の物、お好み焼きなど、主に和の家庭料理だ。大阪生まれの関西人だからか、おみそ汁も昆布やかつお節から、いちいちだしをちゃんととる。
ついていけないのは私だ。夫の仕事に帯同している日本人女性との会話の中に、「ナチュラリー」という言葉が出てきた。「あーはいはい」とか答えながら、内心、それはなに?と思っていた。「おとっつあんナチュラリーってなに?」と家に帰って聞くと、「卵とか野菜を売っている自然食品の店だね」と即答で教えてくれた。
さらにおとっつあんは、「あの小さいスーパーにはポコの好きなプレーンヨーグルトの大ビンが売っている」「ベトナムは大量売りが割安とは限らないから新しいものを必要分だけ買った方がいい」「あそこには51番のバスで行けるよ」「これからの季節はライチだね。粒は小さいのと大きいのがあって……」と、生活情報の仕入れ方がはんぱない。
近所で、パラソルをひろげた屋台のお姉さんの「おこわ」がおいしいことに気づいたのもおとっつあんだ。何層も重なるござのようなものをめくると、その間に、さまざまな味のほかほかのおこわが温められている。ピーナツ、お肉、とうもろこし、ココナツ、にんじんの入ったきれいなオレンジ色のおこわもある。一つ1万ドン(約50円)のおいしい朝食になる。
「家族がいるとそれだけ情報が入ってくる。家族と赴任するっていうことは本当にありがたいことですよ」。ベトナムの特派員を務めたこともある大先輩に、こういわれたことがあった。本当にその通りだ。
それにしても、台所をおとっつあんに任せきりの私は、最近、いわゆる「日本の昭和のおとうさん」の気持ちがわかるようになってきた。どこにフライパンや油があり、ぱんぱんの冷蔵庫の中にどんな食材があるのか、わからない。先日は、戸棚にあったそうめんをゆでて食べようとしたら、「高級そうめんだからとっておいたのに!」と、おとっつあんにおこられた。
いまでは、変な時間におなかがすくと、お湯をかければ食べられる、インスタントの「ドラえもんラーメン(Mi Doraemon)」に湯をそそいで、具もいれずにずるずる食べている。青や赤のパッケージに、ベトナムでも大人気のドラえもんが印刷されていて、ドラえもんシールが1枚入っている。ベトナムで即席麺シェア1位を誇るエースコック製だ。
食べながら、はいよとドラえもんシールをあげるとポコは、「おかあさんはいまはご飯をつくらないね。でも前はハンバーグもつくってくれたね」と、東京時代のくらしを遠い目で語った。ああそうだね、おかあさんのいろんな姿を覚えていておくれ、ぼうや!ドラえもんラーメンをすすりながら私は泣いた。