「自分の足で人生を歩きたい」。新谷夢さん(30)はそれまでの人生でまったく繫がりのなかったミャンマーで、その思いを少しずつ実現させている。
「焼き上がるまであと何分?できたら向こうにおいてね」
ミャンマー最大都市、ヤンゴンにあるオフィス兼調理場の小さな部屋で、新谷さんはミャンマー人の女性従業員に指示していた。「苦しいこともうれしいことも、共にしてきたスタッフはもう姉妹みたい。ミャンマー人の心の温かさに、いつもほっこりしています」と笑顔だ。
卵ボーロを大きくしたようなミャンマーの伝統クッキー「ナンカタイン」などを入れたクッキーの詰め合わせと、自ら考え出した米粉クッキーの2種類を販売している。どちらも、企画から販路開拓まで全て自力でやった。
特に、販売まで2年をかけたオリジナルの米粉クッキーへの思い入れは強い。料理の経験はほとんどなく、ヤンゴンのパン屋に頼み込んで焼き方を教えてもらい、4人のミャンマー人の女性従業員と試食を繰り返しながら話し合いを重ねた。なるべく地元の食材を使おうと、米はもちろん、黒糖もヤンゴン郊外の農家から仕入れている。
スーパーやホテル、市場などに連日足を運んで「商品を置いてもらえませんか」と営業する。なめらかなミャンマー語は、「ほとんどが従業員の女の子たちとのおしゃべりで上達した」という。
「一生ここで暮らそうと思う」という新谷さんだが、日本にいた頃は、ミャンマーで働くことなど想像したこともなかった。
出身は高松市。大学卒業後、地元の銀行に就職が決まったが、もやもやしたものを抱えていた。「就職活動で自分は大学時代、何をしてきたのか振り返ると、空っぽだったように思えた」という。大学では国際交流サークルに入り、留学も経験した。でも、「自分の力で何かをやった」という実感を得ることができなかったという。本当にやりたいことが見つからないまま決めた勤務先。「2、3年精いっぱい働いて、新しい道を探そう」と決めていた。
銀行では同僚や先輩に恵まれ、不満はなかった。でも、自分の業務成績は先輩たちの力を借りて達成したもの。「このままでは周りに頼ったままの人生になってしまう」と不安が募った。そんなときたまたま、父親の知り合いで、ミャンマーで不動産会社を経営する男性がスタッフを捜していることを知った。「行ってみようかな」
実はそれまで、アジアを旅したことはあっても、ミャンマーを訪れたことはなかった。当時は軍政から民政移管し、「アジアのラストフロンティア」と、ビジネスチャンスを求めて日本企業などが大挙して押し寄せていたころだ。2012年6月、初めてミャンマーへ。不動産会社の手伝いをしながら、ここでビジネスを始められないか、考えた。
今のビジネスを始めたきっかけは、日本人の友人が、「ミャンマーに旅行に来ても何をお土産にすればいいかわからない」とふとつぶやいた言葉がきっかけだった。確かに、空港にも市場にも、日本人がもらって喜ぶような土産ものが見当たらない。それなら自分でつくってみよう。会社設立は地元のコンサルティング会社に約25万円で依頼。法律上、知り合いのミャンマー人が代表を務めるが、ほぼ自分1人で切り盛りしている。
それまでは周りに影響されることが大きかったが、ビジネスを始めると頼れるのは自分。「いろいろなアイデアをかたちにしていくのが楽しくて、これが、本当に自分がやりたいことだ、と思った」という。
もちろん、いいことばかりではない。クッキーの販売を頼んだ市場では商品がぞんざいにあつかわれ、箱がつぶれていた。勝手な値段をつけて販売されていたこともあった。米粉クッキーの開発もなかなか進まなかった2年前、「どうしたら今の状況から抜けられるのか」と悩んだ。
そんな自分を救ってくれたのは、ミャンマーの人たちだったという。ビジネスを始めた頃から一緒のリーサンチンウィンさん(24)は、「助けになるならなんでもやりたい」と必死で働いてくれた。「クッキーはミャンマー人にもなじみ深いゴマにしてみたらどうか」「もう少し甘さがあった方がいいのでは」……。失敗を重ねながら商品化に向けて一歩ずつ進んだ。
従業員とは仕事はもちろん、プライベートの悩みも話せる仲だ。サンチンウィンさんは、「(新谷さんは)本当に大切な存在。ずっとこの会社で働きたい」と話す。
今、新谷さんは新たな活動を始めた。小さい頃からマンガが大好きだったことから、アニメやマンガを使ってミャンマー語などを学んでもらう事業を始めようと準備している。
「自分なりの人生を歩めているという手応えが出てきた」という新谷さん。「でも、この環境をつくってくれたのはミャンマーの人たち。ビジネスとして成功させたいという思いはあるけれど、この国に何か恩返しをしたいと思って活動を続けています」と語った。