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英語礼賛は何をもたらすか

アフリカ@世界
農地の先に高層ビルが見えるルワンダの首都キガリの街並み。ルワンダ語の他、フランス語や英語も公用語になっている
農地の先に高層ビルが見えるルワンダの首都キガリの街並み。ルワンダ語の他、フランス語や英語も公用語になっている

日常的に併用すべき?

 2020年度から実施される新しい学習指導要領で、小学校での英語の授業が拡充される。現在は5年生から始まっている英語に親しむための「外国語活動」は、3年生からの実施に前倒しされる。5年生からは教科書を使用する正式な「教科」として英語学習が始まり、授業時間は現行の35コマから70コマに倍増する。各校の判断で18年度からの先行実施も認められており、来月から英語の授業時間が増える小学校も出てくるだろう。

 4月から教壇に立つ立命館大学国際関係学部で、私は日本語と英語の両方で講義を担当する。日本語の講義はともかく、英語の講義は不安である。そんな私でも英語で講義しなければならないのは、既にアカデミズムの世界には、英語を中心に情報収集・発信せざるを得ない現実があるからだろう。ビジネスの世界でも、社内公用語に英語を導入している日本企業が複数存在することは周知の通りである。
 小学生が年間70コマの英語授業を受けたところで、英会話に不自由しない日本人が将来、大勢誕生することはないだろうが、英語が事実上の「国際語」として使われている現状に鑑みれば、人生の早い時期から英語に触れること自体は悪くないと考える。

 しかし、私は、子供が英語に触れる時間を増やすことには賛成でも、英語ができることを過度に重視する社会には、違和感を覚えている。ましてや将来、英語を日本の第2公用語に制定するような動きが台頭してくるとしたら、それには反対する。日本では00年、有識者でつくる小渕恵三首相(当時)の私的諮問機関「21世紀日本の構想」懇談会が、英語を「第二公用語にはしないまでも、第二の実用語の地位を与えて、日常的に併用すべき」との報告書を首相に提出したことがあった。

 大学が英語の講義を増やすことや、企業が英語の社内公用語化を導入するのは、各組織の自由である。そういう大学や企業が嫌な人は、近づかなければよい。
 だが、国家の政策として英語を公用語化してしまえば、全ての日本国民は何らかの形で英語と接点を持たざるを得なくなる。それは恐ろしい社会だと思う。英仏を中心とする欧州列強に植民地支配された経験を持つアフリカ諸国と長くお付き合いする中で、私はそう考えるようになった。

勝手に定めた国境で

 私はアフリカ諸国の人々とメールや電話で意思疎通する際に、長年にわたって英語を用いてきた。アフリカに出張する際にも、面談相手が政治家、政府職員、ビジネスマン、ジャーナリスト、NGO職員などの場合は英語で意思疎通してきた。とりわけ旧英国植民地だった南部アフリカと東部アフリカの国々の多くは、英語が公用語である。私が会う人々は、家庭では現地諸語を話しながらも、小学校から大学まで英語で教育を受けてきたので、私よりも遥かに高い英語能力を持ち、職場では全ての業務を英語で遂行している。一般にわれわれ日本人が接点を持つアフリカの人々は、こうした階層の人々であり、この『朝日新聞GLOBE』を含む日本のメディアで何らかの形で話題になるのも、こうした人々である。彼らとの意思疎通は、こちらが全力で英語を使えばよい。

 しかし、首都を離れて地方に取材・調査に出かける時や、首都であっても低所得者が集まる地域などに出かける時には、多くの場合、英語と現地諸語の両方を解する通訳に同行してもらわざるを得ない。英語を公用語としている国であっても、その国の市井の人々の世界に一歩足を踏み入れれば、「英語を十分には理解できない人々」が「英語の堪能な人々」よりも圧倒的に多いのが現実だからである。
 アフリカのおよそ半分を占めるフランス語圏諸国でも、事情はあまり変わらない。その国の公用語がフランス語であっても、いわゆる庶民の中には、フランス語をほとんど理解しないか、あるいは農村部の高齢者などの場合には全く理解しない人が少なくない。いわんや英語など、「Thank you」でさえ通じないことも珍しくない。

 英語がアフリカのほぼ半分の国の公用語になったのは、英国による植民地支配の結果である。これらの国々は、英国が植民地期に勝手に定めた国境線を引き継ぐ形で独立せざるを得なかったので、1950年代後半~60年代に相次いだ独立に際して国内のどこでも通用する現地諸語が存在せず、仕方なく旧宗主国の言葉である英語を公用語に採用した。
 以来、行政文書、議会審議、官報、学校教育、裁判などはすべて英語で行われ、企業やメディア(国営テレビ、新聞)などの活動も英語が中心になり、人々は家庭での会話で用いる現地諸語と英語の二重(場合によっては三重・四重)の言語環境に置かれることになった。

市井の声が届かない社会

 人々が幼少期に自然に覚え、家庭や地域の中で使い続けている日常言語とは一切関係のない英語によって社会が運営されるとは、どういうことか。もし今、日本で、税金、不動産、雇用、保険、年金から母子手帳に至るまで、役所や企業から送られてくる全ての大事な書類が英語になったらどうなるかを想像してみたらよいだろう。
 小学生であれば、学校の授業は全て英語で行われ、休み時間には友達と現地語で話し、教師からは英語で叱られ、帰宅すれば現地語で家族と話す。父や母が現地語で掛け算を教えてくれても、教室では英語で掛け算を教わるのである。端的に言って、独立後のアフリカ諸国の人々は、ずっとそういう環境下で暮らしている。

 明治維新後の初代文部大臣となった森有礼(1847~1889)は、日本の国語を英語に切り替えるべきだと提案したことがある。日本が西洋列強に伍するためには、国際的コミュニケーションに適した英語を使うべきというのがその主な理由であったが、2008年に亡くなった評論家の加藤周一によれば、2人の識者が当時、森の主張に反対意見を述べた。
 一人は米イェール大学の言語学者W.D.ホイットニー、もう一人は明治初期の言論人だった馬場辰猪。2人は、英語を日本の国語にすれば、英語を話す少数の日本人と、英語を話さない大多数の日本人の間に、必ずや深く越え難い溝が生じるだろうと警告し、そうした社会の例として、英国植民地支配下にあった当時のインドの状況に言及したという(加藤周一「夕陽妄語」朝日新聞夕刊、2000年2月17日)。インドは現地語に加えて英語を話す少数のエリートと、英語を解さず現地語しか話せない大多数の市井の人々が、政治的・経済的・社会的・文化的に断絶し、市井の人々の声が権力層に決して届かない社会であった。

 「インド」を「アフリカ諸国」に置き換えても、事情は同じである。英語を公用語とするアフリカ諸国でも、経済的に恵まれ、大学まで進学できた人は英語を使いこなし、成功の階段を上り、今日われわれとFacebookでつながっているだろう。
 だが、当然ながら、そうした人は多数派ではない。全ての子供が裕福な家庭に生まれるわけではなく、むしろ、家庭の事情で小学校を卒業できなかった子供の方が多数である。
 もともと存在した現地諸語に英語を公用語として加えた言語環境は、英語を操る少数の知識層・富裕層・権力者層と、英語を解さず社会の意思決定過程から疎外された圧倒的多数の人々との格差を広げる方向に作用することはあっても、その逆ではなかったのである。

かけがえのない財産

 今の日本は、アフリカ諸国や19世紀のインドのようには貧しくはなく、エリートと市井の人々が完全に分断されている訳でもない。
 だが、今の日本でも、外国留学する子供は決して多数派ではない。また、そうした費用を軽々と捻出できる家も多数派ではないだろう。海外駐在経験のあるサラリーマンや公務員も、昔よりは増えただろうが、やはり多数派ではない。増え続ける外国人旅行者に道を聞かれる機会が増えたとしても、一生に何十回も聞かれる人はそういない。外国と直接的な接点を持つことなく、生まれ育った地元で生涯を終える人や、厳しい経済状況の下で暮らしている人が大勢いることは言うまでもない。

 なにより、国語はすべての国民のものである。したがって、論文を英語で発表しなければならない学者や、外国と商取引しなければならない大手企業のビジネスマンの都合は、英語をすべての日本人に強制し、その結果として格差をさらに拡大させる理由にはならないだろう。社会に様々な格差が存在する中でも、すべての日本国民が等しく理解することができるのが日本語である。こうした言語環境は、インドやアフリカ諸国にはない、かけがえのない財産というほかない。その言葉を大事にすることにエネルギーを使わず、英語を全ての日本人に強制することは本末転倒だと思うが、どうだろうか。

 私の周りにも、幼少期からの英語教育の重要性や公用語化を熱心に主張する人が少なからずいる。あくまで私の個人的な感想に過ぎないが、米国への留学や駐在の際に、米国人とのコミュニケーションの過程で「英語が下手なこと」で苦労したトラウマのある人に、そうした傾向が強いように感じている。ネイティブのように英語を操る帰国子女の我が子たちから「お父さんの英語は変だ」とからかわれている者の一人として、気持ちは分からないでもないが、言わずもがな、世界は米国だけではない。英語ができることの利点を説きつつも、広く世界を見渡し、英語導入がもたらすリスクにも目を向けてほしいと思う。