安楽死を選んだ「ヤタさん」 奪われた婚約者、40年の闘いと“正義”への祈り
中米エルサルバドルで行われたその裁判は、1982年3月17日、内戦下で取材をしていたオランダ人テレビ取材班4人の殺害の責任を問うものだった。
被告人は3人。当時の陸軍将軍だった元国防相(判決時91歳)、軍政下で治安維持も担っていた財務警察を率いた元長官(同93歳)、4人の殺害を直接命じたとされる元第4歩兵旅団司令官(同85歳)である。
ヤタさんが生涯「ソウルメイト」と呼んだ元婚約者のヨープ・ウィレムセン(享年44歳)は、殺害された取材班4人のうちの一人だった。
当時高官職にあった被告3人は、内戦終結直後に制定された恩赦法により長らく訴追を免れていた。
だが2016年、エルサルバドル最高裁はこの恩赦法を違憲として撤回。オランダの被害者遺族らは、高齢の彼らを改めて告訴した。
元国防相と元警察長官は、2022年にすでに勾留されていたが、元歩兵旅団司令官は現在アメリカに居住している。エルサルバドルへの身柄引き渡しが求められているが、いまだ実現していない。
裁判所は、検察の求刑通り、被害者1人あたり懲役15年、計60年の判決を各被告に下したが、犯行当時の刑法上限にのっとり全員懲役30年とした。
一方で、エルサルバドル国家に対しては、裁判を起こす権利を否定し、不当に裁判を遅らせたとして、軍最高司令官であるナジブ・ブケレ現大統領に遺族への公式謝罪を命じた。
これを受けて検察は、判決で命じられた国家による謝罪と補償が不十分だとして控訴。審理はまだ継続している。
1980年から1992年のエルサルバドル内戦の犠牲者は、7万5000人を超えると言われる。その3分の2は民間人だ。
国連設置のエルサルバドル真実委員会(原語:Comisión de la Verdad para El Salvador)には約2万2000件の深刻な人権侵害の事例が報告されたが、国や軍の高官に有罪判決が下ったのはこの裁判が初めて。内戦中の国家権力による重大犯罪を裁く象徴的な裁判として、エルサルバドルやオランダ以外の国々でも広く報じられた。
ヤタさんは、カメラマンだったヨープとしばらく一緒に暮らしていた。
2人は、ヨープがエルサルバドルでの取材を終えたあとにメキシコで合流し、式を挙げる予定だった。
だが、花嫁衣装を持って先にメキシコに入ったヤタさんの元に届いたのは、婚約者が同僚ともども機関銃で殺害されたという知らせ。滞在先のテレビから流れるニュースでそのことを知った。
「スペイン語がわからなくても、オランダ人ジャーナリストが殺害されたという一文だけはちゃんと耳に入ってきた」と彼女は話していた。
以後、彼女も被害者遺族のひとりとして、正式な事件調査や裁判を求める声をあげていた。
ヨープたちが追っていたのは、内戦の惨状だった。
当時、寡頭エリートの支配と大きな社会格差の中で、米国が支援する政府軍・右翼民兵組織と、共産圏が支援する農民主体の反体制左派ゲリラが衝突。冷戦下の代理戦争として世界が注目していた。
真実委員会によれば、激戦地域でゲリラ軍と接触し、その活動状況や農村住民の日常を取材しようとしていたヨープたちは「国家軍事権力に対する敵」と見なされ、待ち伏せていた政府軍に射殺された。
「エルサルバドルのチャラテナンゴには、ヨープたちの慰霊碑が建てられた。でもあの国には、惨殺を語られることも、追悼されることもない被害者が大勢いる。そんな彼らには、裁判請求をすることができる遺族も、エルサルバドル政府に外交圧力をかけ続けるオランダ政府のような存在もなかった。40年以上が過ぎたけれど、ヨープたちが旗振り役となって、何万人もの名も無い被害者についてもその正義が回復されることを、私は願っているのよ」
死期が迫る中、ヤタさんは頻繁にエルサルバドルに心を馳せていた。
裁判は4月23日に予定されており、本来ならヤタさんが存命中に判決が下るはずだった。だが、被告人弁護士の体調不良を理由として、裁判は6月まで延期に。待ちに待った判決を、彼女がこの世で聞くことは叶わなかった。
この裁判の話題は、4月中旬からオランダの各メディアで広く報道され、医師との世間話でもたびたび話題に上った。
だが白状すれば、私は裁判延期のニュースだけはヤタさん本人に伝えることができず、医師にも口止めした。
裁判開始という待望のニュースだけを、冥土の土産にしてもらいたかったのだ。
彼女の死後、家の整理を手伝っていたら、ヨープたちの殺害やその後の調査の進捗を報じるオランダの新聞記事の切り抜きが出てきた。
分厚いファイル7冊分。おそらく、掲載された全ての記事が収まっているのだろう。
殺害現場や、機関銃に打ち抜かれて蜂の巣になった彼らの遺体の写真もあった。しまいこまれてはいたものの、処分されることはなかったそれらの資料はずっしりと重く、ヤタさんの闘いに終わりがなかったことを物語っているように思えた。
だから、私にも処分できなかった。家に持ち帰り、以前ヤタさんから譲り受けていたヨープの形見の古いニコンカメラと共に保管することにした。
思い返すと、ヤタさんは、亡くなる少し前から人生最初の鮮明な記憶について繰り返し話すようになっていた。
1942年に中国の張家口で生まれた彼女が、3歳で日本に引き揚げた時のことである。
「家の鍵はかけずに、貴重品は置いていくように」と言われ、住み慣れた家を後にした。無蓋車に乗り天津の港へ行き、船でまだ見ぬ日本へと渡った。
体が弱かった妹を抱いた母とは別の車両に乗せられてしまったヤタさんを見て、前に座っていた見知らぬおねえさんが「かもめの水兵さん」を歌って慰めようとしてくれた。そして空を飛ぶ鳥を指さし、「ほら、気持ちよさそうねえ」と明るく言った。
だが、それを聞いたヤタさんは、「バカ言うんじゃない」と思ったという。子供ながらにその状況が、戦争に人生を振り回されているだけだとはっきりと自覚していたのだ。「あの瞬間、私は一気に大人になった」とも言っていた。
あの引き揚げから37年後、彼女の人生は再び戦争に狂わされることになった。容赦ない不条理と理不尽に打ちのめされた記憶は、最期の日々まで彼女を離すことがなかった。
病床で彼女は、エルサルバドル内戦のことをこう語っていた。
「遠い国での昔の出来事だからって、なかったことにしていい戦争なんてあるわけないのよ。でもあの内戦のことは、日本ではそれほど知られていないのよねぇ」
その少し悔しそうな語調が、今でも印象に深く残っている。
親子ほど年の違う友人が話してくれた激動の記憶の数々は、持ち主を失い、宙に消えつつあった。
だが私には、それらが消滅に抗い、たとえ断片だけでも記録されることを願っているように思え、改めてヤタさんをしのびながらここにつづった。
判決の翌月、ヤタさんの遺灰は北海に撒かれた。